阿部初美のブログ

演劇の演出家です。

2011年08月

ワークショップについて考える/北九州

先月の下旬、ひさしぶりにひとりで北九州を訪ねた。
こどもKは、初めてじぃとばぁの家にひとりでお泊まりである。
前日の予行練習はうまくいったので、なんとかなりそうだとひと安心して出かけてきた。

目的はこの秋の、市内の小学校でのワークショップの打ち合わせだ。
劇場学芸のNさんMさんの事前調査によると、この小学校は市街地からさほど離れているわけでもないのに、周辺地域とのつながりが薄く、こどもたちはこの狭い地域をすべてとして生活しており、さらに一学年1クラスという人数の少なさなので、6年間クラス替えはなし、ずっと一緒なのでお互いをわかりきってしまい、中学に行ってはじめて知らない友達と出会って、どう接したらよいか、コミュニケーションに悩むのが普通、ということらしかった。

女性の校長先生は、きびきびとして笑顔が絶えず、こどもたちや先生たちによかれと思うことはなんでもとりいれるという積極的な人で、ご挨拶に伺ったときもとても忙しそうにしていた。
この日は、ワークショップに参加する6年生の授業の見学、その後に先生方全員へのプレゼン?(わたしの活動の紹介)、そして担任の先生からの聞き取りと打ち合わせ、というスケジュールだった。
担任の先生は、以前に竹内敏晴氏のワークショップを受けていたり、独自に演劇の勉強をされていたりしていて、今回のワークショップにもとても協力的にのぞんでくださっていた。

こういう一学年1クラスの学校はおなじみのいわきにもあって、そこではもう一年生から一緒でお互いのこともわかりすぎていて、言わなくてもわかるみたいな状態だから、あまり話をしないから、人に自分の考えを伝えることがとても不得意になってしまうので、言葉の教育に力を入れて功を奏したと聞いた。
いわきのこどもたちがしゃべらないのに対して、小倉のこどもたちは逆にわかっているからなんでも言えちゃう、言われた方もたいして傷つかない、という関係になっているということだった。
興味深い話だ。

小倉のこどもたちはこの日、夏休みの英語の課外授業を受けていた。
校長先生は、「授業に参加してもいいし、こどもたちに話しかけてもいいし、好きにしてください」と言ってくださった。
こどもたちは、男の子が18人、女の子が8人の計26人で、ワークショップの理想的な人数よりは多いけど、わたしたちが小学生の頃のように1クラス40人なんて状況よりはまだぜんぜんいい。

夏休みで集中力がないのか、こどもたちは英語の授業中におしゃべりばかりしてる。とくに男の子たちは隣の子にちょっかいだしてふざけたりしていて、懐かしい風景だった。
もちろん先生はとてもやりにくそうで、ふざけている子が手をあげても無視を決めこんでいた。
あとで担任の先生に聞いたら、英語は不得意な子も多く、自信がないこともあって授業中ついふまじめな態度をとってしまうということだった。
6年生の夏休みである。春の6年生はまだ5年生の雰囲気が抜けてなくてぼーっとしてたりこどもらしい素直さやいたずらやおふざけが見えるのに、これが冬頃になると思春期に入ってくる子もでてきて、こどもっぽいことなんかやってられるか的な、ナナメな態度も見えてくる。
このクラスにももうそんな子がいた。全体の雰囲気は元気。言いたいことを言いあえる関係もわかる。
こうして事前にこどもたちの姿を見られると、内容を考える時ずいぶん助けになる。
先生からの聞き取りだけだと、「おとなしい」と聞いたわりには騒がしいとか、聞いた話と実際の印象が違っていることも多く、考えてきた内容を当日その場で変更しなければならないことも多かった。

さてこんなこどもたちには、どんなワークショップをしたらいいのか。

よく先生方に要望を聞くと、いじめなんかの問題で、他者の気持ちになって、ともだちに思いやりを持って接するようになってほしいというものがある。
これは他者の立場を演じてみるとか、他者と一緒に、他者を気遣いながら表現を作る演劇の得意なところだけど、自分で少し反省するのは、最近は先生の要望をくみすぎて、道徳に近づきすぎていたんじゃないだろうかということだ。
最近は、ひとつひとつのワークショップのメニューに対して、なぜ演劇ではこういうゲームやトレーニングをするのか、その方がわかりやすいという理由で終わった後に説明を入れるようになっていて、そこで道徳的なことを言わなければならないのがなんとなく気恥ずかったり、なんか違う、と違和感を感じたりしていたのだった。
こどもたちに社会で生きていくための基本的なルールをおしえこまなければならないのは本当にその通りで、先生のご苦労も想像するのだけれど、演劇にかぎらず芸術はきれいごとでは済まされず、むしろ社会のルールを一時的に壊したり乗り越えたりすることで、本当に意味での社会や人の健康を保つという役割を持っているので、たぶんそのへんが難しく違和感を感じるところだったんだろう。
はっきりした。
その役割を、道徳の方に寄りすぎることなく全うできたらいいんだけど、そうすると教育上よろしくないということで排除されてしまう可能性もあるだろうと、今までの学校での経験からそう思う。いずれにしろ追い出されては困るので、追い出されない程度にバランスをとっていく必要があるということか。

それから多いのは、自分の意見を恥ずかしがらずにどうどうと言えるようになってほしいという要望も多い。
俳優が人前でどうどうと演技をしたりするから、人前での表現が上手になる、という印象になるのだろう。
まあ、演劇体験を通じて、そうならなくはない、と思う。けど、それは時間をかけて継続した場合の話で、たった一回のワークショップでそうなる可能性はかなり低いと思う。
というか、そもそも俳優という人種はそれが不得手だから、自分ではない人を演じることでどうどうと表現できる機会を得ているので、素で他者とコミュニケーションを取るのはとても苦手、という人が多い。
短時間の演劇ワークショップで可能なのは、そういう日常のコミュニケーションとは違うレベル、つまり演劇という嘘ありなんでもありの非日常的なレベルで、日常とは違う表現の仕方でコミュニケーションをとってみよう、そうすると、今まで気づかなかった自分やともだちの一面に気づいたり、少し世界の見え方が変わったりすることがあるよ、ということなのだ。

わたしが演劇ワークショップを熱心にしてしまう理由は、わたし自身が演劇によって救われたという実感があり、演劇に触れることで救われる子や人もいるかもしれないと思い、自分の手にした知恵をできるだけ多くの人に手渡したいと思うからだ。

「キャラ分け」や「KY」に苦しむいわきの演劇部の高校生たちに、「演劇部じゃない子も、みんなが演劇をやったらキャラ分けとかKYとかで苦しむことはなくなるんじゃない?」と聞いてみたら、みんなはっとした顔で一瞬だまり少し考えたのち「そう思う」と、全員が言った。

一般的に「演劇」はずいぶん誤解されてるなと思う。演劇の本当の力はほんとに知られていない。

さて小倉のこどもたちである。
彼彼女らになにを手渡すことができるんだろうか。

これまでの事前調査で考えてみると、視野をぱっと広げてあげられるようなこと、世界の広さを肯定的にとらえられるようなこと、知らない世界を面白いと感じられるようなこと、だろうか。
どんな手法で?
今までと違う、新しいワークショップをやってみたいと思う。

明後日は台風がくる予定だけど、だんなの実家の福岡に帰省するついでに、また小倉のこどもたちにも会いに行く。ありがたいことに担任の先生が、こどもたちと自由に使える時間を1コマ、わたしにくださったのである。この1コマをプレワークショップとして、こどもたちと話をしたいと思う。
この秋の本番のワークショップをうまく運ぶための大事な一歩になる。この時間を大切に過ごしてきたいと思う。








ワークショップはなんのため?

最近、ワークショップについて考えることが多くなった。

ワークショップの意義は?
なんのために、だれのために?

子育て中で作品製作ができないので、ワークショップが仕事のメインになっているから、ということもあるが、きっかけは、震災直前にいわきで行った小学生対象のワークショップにある。

産後初めて子連れで行った仕事だった。うちのこども、Kはまだ一才前で、歩きはしないけどつかまり立ちとハイハイでどこまでも行ってしまうし、一瞬もじっとしていないし、ホテルや飲食店での振る舞いもひどいもので、椅子から落ちて頭をうったり、床に落ちている食べ物を口にしたり、電話をおもちゃにして壊しかけたり、トイレットペーパーをどこまでもひっぱりだしたり、夜は何度も泣いて目をさましたり、とにかく一緒につれていって、ワークショップの時間は現地のベビーシッターさんにお願いしたものの、それ以外の時間はずっと一緒だからエネルギーを全部そっちにとられて、仕事に集中するのがやっとだった。

高校演劇部対象のクリニックワークショップは山口でも何年か継続して慣れていたし、一校一週間と滞在も長いので、そんな状況でもそれほど支障はなかったのだが、一日2コマかぎり、一期一会の小学生ワークショップが今までになく難しいものになってしまった。
こちらのコンディションの悪さにくわえ、小学生(6年生が対象)たちも卒業式まで秒読み段階で浮き足だって集中力のない状態(担任の先生談)で落ち着きがなく、コミュニケーションゲームの説明すらまともに聞けないような感じで、静かに話を聞いてもらうために心をくだかなければならなかったが、わたしも寝不足と体調不良で頭がまわらず、いつものようにうまく切り替えたり、その場をまとめたりができず、このワークショップの後は本当におちこんでしまった。
これじゃ、なんのために演劇ワークショップをやるのか、意味がわからない。
子連れで仕事はやっぱり無理なんだろうかと。

その前から少し不安はあった。
こどもの世話があまりにもたいへんで、自分が助けてほしいくらいなのに、こんな状態で人のためになにかできるんだろうかと。
まあでもずっとやってきた仕事だからなんとかなる、と思った。
でもなんとかならなかった。ひさしぶりの失敗だった。まったく救いがなかったわけじゃないけど。
こどもたちが浮き足立って集中しないというこのケースは、こちらが万全の準備と体調でのぞんでも舵取りは難しいのだから、当然といえば当然だ。

その痛い経験からずっと、そもそもなんのためにワークショップをするのか、ずっと考え続けている。

一番難しいのは、よくある一日限りというこども向けワークショップだ。
だいたい小学5、6年生が対象になることが多いのだが、とくに6年生などはこどもたちの状態は一年を通して変化しやすいから、どの時期にやるかによってもぜんぜん反応が違ってきたりする。
そしてたった一日で、だいたい2コマ連続で2時間弱のワークショップになるのだが、時間が短いので、こどもたちにとって異物であるわたしたちに慣れてもらう時間もない。
それでもこどもたちの側がとても感覚がよかったりすると、たった一回のこんな短い時間でも奇跡的なことがおこってしまったりするのも事実で、とにかくアタリハズレが大きいのが小学生の一日体験ワークショップだ。だからいつもより気合いを入れてかかるけど、そのわりに手応えはまちまちで、正直これは疲れる仕事なのだ。

長期連続型ワークショップなら、大人こどもを問わず、数回に分けていろんな体験をしてもらえるし、それを深めてもいけるし、その間に様子をみながらそれぞれの参加者に合った内容にアレンジしていったり、信頼関係を作っていったりもできるし、目的や目標もはっきりしていることが多いからとくに問題は感じていないし、やりがいも感じている。

しかしそもそもなぜたった一日限りのワークショップをやるんだろう?
だいたいは公共劇場が主催するアウトリーチ事業にこういうパターンが多いけれど、これはまあ、ちょっとだけかじってみて、という「紹介」と「体験」を目的にしたものなんだろう。
劇場の文化事業に興味や関心を持ったり親しみを感じてもらうための出張お試しサービスといったところだろうか。

わたしはなぜこのリスクの高い仕事を受け入れているんだろうか?
そしてたぶん、もしかしたらただの試食会にしてはエネルギーを変にかけすぎているのかもしれない。
たぶん、わたしがそこでやりたいことは本来もっと時間を必要とすることなのに、それをたった一回の中で実現させようと無理をするからひずみがでてきてしまうのかもしれない。

少し問題がクリアになってきた。

わたしがやりたいこと、とはなにかと言えば、その参加者たちに合わせた内容のワークショップがしたい、ということで、それはその参加者たちに少しでも演劇という表現の面白さや、生きる知恵がたくさんつまってるんだということを知ってもらい、もっと演劇に親しんで道具として活用してもらいたいということだ。

ここで一つネックになっているのは、「その参加者たちに合わせた」内容にしたいということだ。
なぜならそれは、どこに行っても誰を対象にしても、変わらない内容のワークショップには疑問を持っているからだ。
それはそれぞれみんな地域により年齢により立場により、必要とすることは違っているはず、という考えにもとづいていて、やっぱり必要とされていないことをしてもしようがないんじゃないか、と思うから。
たとえば演劇ワークショップには、人に見られることの緊張や怖れから自分を解放することを目的としたゲームやトレーニングがあったりするけど、すっかり解放されてる人たちのところでこれをやってもしかたない。

なので、そのつどの参加者たちのニーズを知るための事前調査が必要になってくる。
ワークショップの実施校が決まったら、ワークショップの前にその学校に出向き、とくに担任の先生からこどもたちの様子や先生の要望を聞き、それをもとに、ワークショップの内容や当日の出方を考えてきた。
そこまでしても、実際には、本当にそれがうまく功を奏してこどもたちがすばらしい体験をしてくれた、表現を見せてくれた、と目に見えてわかることはとても少ないし、一日限りで終わりなので、その体験がこどもたちにとってどうだったのか、なにかを感じてくれたのか、本心のところで聞くこともほとんどできないというジレンマも強い。感想文をもらっても、「面白かった」「よかった」と、紋切り型でどれもこれも同じような感想文ばかりで本当にそう思ったの?と聞きたくなるようなものが多いし、だから「面白くなかった」なんていうのがあると、かえってほっとするくらいだし、だからこそわたしたちのやらなければならないことはたくさんある!と思ってしまうのだ。
長期連続型ワークショップなら、多くの参加者が変わっていく様子も手に取るようにわかるし、その体験の感想も直接本人から聞くこともできるのに。

しかしそこまで結果を望むなら、これをたった一日2時間程度のワークショップでやろうとする方が間違っているんじゃないだろうか。一日一回2時間限り、というのはやっぱり試食会の枠だ。

それなら今後こういう仕事はどうしていくべきなのか。
受けるのをやめるのか、それはできるだけ避けたい。
目標を「紹介」にとどめるなどもっと低く設定するか。
それとももう少し期間をのばしてほしいと要求するか。
などと考えているところに北九州芸術劇場からまた小学6年生対象一日一回2コマ限りの演劇ワークショップの仕事の依頼があり、担当のMさんに、このことを率直に話してみた。

相談してみるもので、担当のMさんとNさんは、学校とかけあって作業時間を1日4コマ×2日間にひきのばしてくれたのだ。ものすごく嬉しかった。もちろん長期にくらべたらまだハードルは高いけど、一日だけよりは何倍もましだ。

ということでまた、北九州、北小倉小学校に向かった。
産後初めてのひとりたびだった。

子育て


その後もあいかわらず病気ばかりでしんどい日々を過ごしている。

でもこの病気の体験はしんどいけれど、いろんなことを学ばせてくれている。
どっぷりと子育てと格闘しながら、今まで読むことのなかった本を読み、行ったことのなかった場所に行き、違う速度の中にぎくしゃくと身をおき、ずっと治療できなかったところを治療し、話したことのなかった人と話し、話すことのなかった話題を話し、立ち止って今までのやり方を見直し、違った角度から物事をみて、本来考えたかったことを考えている、ということを考えると、感謝すべきことだと思う。

だいたいいつも、痛い目にあわないと根本的になにかを改善しようとか痛切に感じなかったり、忙しさにかまけて先送りにしてしまうので、痛い目に遭うと、これは何かを学ぶべき時がきて、今までと違ったやり方や考え方や振る舞いを身につけなければばらないんだなと思う。

今は日本という国にもそんな時が訪れているけれど、そのことについて今は触れられない。
今はできることをしながら、無我夢中で「子育て」をしている。そうするしかない。

このところ、病気ばかりで本当に体はきついけど、嬉しい再会がいくつかあった。
それはこどもを産んで子育てしていなかったらなかったかもしれない再会だった。

産後はずっとずっと本当に孤独な生活だった。もちろんこどもはいつもいるけれど、話はできないし、外にでることもままならない、パソコンを開くことも、メールを書くことも、人と会うことも、電話で話すことも難しい。
今まで一つの場所にじっとしていることのない生活を送ってきたので、これは本当に苦痛だった。
いつもいろんな場所に行き、いろんな人と話した。やりたいことがいつもたくさんあった。
これがほぼすべて不可能になった。
赤ちゃんは眠らずに一日中泣き続けるし、近くには知り合いもいない、遠居の親もあてにならない、夫も忙しく帰りは遅いし土日も振替休日なしに出勤がつづく。
夫ともほとんど話ができないばかりか、夫以外の大人とまともに会ったり話したりもできなかった。
子育て中の母親はこんなにも孤独なんだと初めて知った。
もちろん親や友だちが近くにいたり、近所付合いがさかんなところはそんなこともないんだろうけど。
退職後のサラリーマンの生活ってこんななのかなとも思った。
ともだちはわたしの場合いつも仕事上の仲間だったけど、仕事がなくなってしまえば音信はとだえ、わたしはもう用なしの存在なんだな、とさえ思えた。
NHKのニュースでいつか「ミドルエイジクライシス」という特集があって、わたしと同じような体験や悩みを持つ女性たちが紹介されていたけど、彼女たちの思いは本当に共有できるものだった。
こどもはかわいいでしょうと言われるけど、正直、一才を過ぎるまでそんなふうには思えなかった。

そんな折、高校の時の同窓会があって、本当にひさしぶりに人の集まるところにでかけていった。
まだまだ授乳中だし、こどもはミルクを飲んでくれなかったから、だんなにあずけて出かけることも難しかった。出かけて遅く帰って、それから搾乳しなければならないのも面倒だった。
そこで20年ぶりくらいに当時の友人たちと会ってみると、多くの友人は結婚してこどももいて、子育ての悩みや苦しみに共感をしめしてくれた。
そこで再会した友人も「一才すぎるまでかわいいなんて思えなかったよ」と言ったけど、その言葉はどんなに安心させてくれたことか。
「昔のともだちって前置きなしに、直接話したいことを話せるからすごいよね」と言う友人もいたけど、ほんとにそう思う。
社会に出てからはそういう「ともだち」を作ることはとても難しい。
でもそれは悲観すべきことばかりでもないとは思うけど。

それから、去年の苦しい一年の間に、わたしに仕事をさせてくれた(この仕事にどんなに救われたか)、足立区の公共ホールが主催し、芸大の熊倉すみこさんのプロジェクトでもあった「SPC(スチューデント プロデュース コンサート)」のメンバーで、北九州芸術劇場に学芸員として就職したMさんが、北九州で「子育て」を表現にどう結びつけるかをテーマに勉強会と小学校でのワークショップを企画してくれた。
この夏、こどもをおいて初めて一人で北九州に行った。ひさしぶりの北九州でとても嬉しかった。
わたしは以前から小倉の街が好きで、山口YCAMに行くついでによく小倉にも遊びに寄っていた。
小倉の街の人々も元気で、地元の人は「荒い」というけど、その飾らなさはとてもつきあいやすかった。
北九州では、この企画をMさんとともに担当してくださっているNさんとも再会した。
3人のお子さんを育てたNさんはわたしにとっては先輩ママで、いろいろ教えてもらうことも多かった。
先日、Nさんに紹介された東京青山の「クレヨンハウス」に行ってみたけど、ここは子育て世帯の楽園のような場所だった。地下が自然食レストランとオーガニック野菜のお店、一階は絵本の本屋さん、二階は自然素材でできた世界から集められたおもちゃを扱うおもちゃ売り場、三階は女性のための本屋さんで、夏休みのせいもあって、上から下まで足の踏み場もないほど大盛況で、ほんと、こんな場所が近くにあったら通っちゃうだろうなーと思った。
また夏休みが終わった頃に訪ねてみたいと思う。

病気がピークにしんどかった日には、都内の劇場の学芸のEさんとKさんが訪ねてくれた。
Eさんの「仕事はいつでもできるけど、出産や子育ては時期限定だし、いつでも誰でもできるわけじゃない」という言葉にも、本当に救われた。
誰もそんなふうに言ってくれた人はいなかったからだ。
演劇の世界では、女性の演出家はもともと少ないけど、こどもを持つ人はほとんどいない。
知っているのは故如月小春さんくらいだ。
女性がこどもを持てば仕事のキャリアの中断や断念につながりやすい。
俳優でもこどもを産んで、いい形で復帰したり仕事を続けたりしている女性の俳優は少ないのではないかと思う。
わたしもそこには不安があったし、実際、仕事の世界からはすっかり忘れられたように音沙汰がなくなっていて、しょせんそんなものかと現実を思い知らされたように感じていたから、よけいにEさんのその言葉はありがたかった。
EさんとKさんは、わたしの近況の話を3時間も聞いてくれた。
打ち合わせなのに、こんな話をいつまでもいいの?と聞くと、それが聞きたかった、聞いたことをもとにどんな仕事をお願いするかまた考える、という答えで、これもまた本当に嬉しく、ありがたかった。

今、Eさんたちとはやはり「子育て」をテーマにしたワークショップの企画が進んでいる。
これには、子育て中の親子のみならず、こどもを持つ人持たない人、どんな人でも「子育て」に関心のある人に参加してもらいたいと思っている。

よく自治体が主催する児童ホームなんかの母子対象のイベントがあるけど、これではだめだとわたしは思うのだ。一度参加して以来行っていない。
もっといろんな年齢や立場の人と「子育て」を共有していけるような仕組みが必要だと、痛切に感じている。
その第一歩として、そんな時間と場所を作れたらうれしいと思う。

そして実際の出産育児体験や、北九州やEさんたちの劇場からのお誘いで気づいたのは、演劇というジャンルは、出産や育児のテーマをほぼ切り捨ててきたということだった。
人生や社会にとって必要不可欠でとっても大切なテーマで、多くの人がこの体験でいろんな思いをかかえているにもかかわらず、その声は演劇の世界ではほとんど表現されてこなかったし、自分にとっても盲点だったと思う。
そこにいつか形を与えていける日を待ちたい。

健人の足



































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