阿部初美のブログ

演劇の演出家です。

2011年11月

ワークショップ(小学生) in 北九州2

さて二日目。みんなはどれくらい家で考えてきてくれただろうか。
昨日は帰りに校長先生が二人の男の子をつかまえて、「今どれくらい力出してやってる?」と聞いていた。男の子たちは「60パーセントくらい。。。」と答えた。「じゃあいつ100パーセントの力を出すの?」と聞くと、こどもたちは黙ってしまった。「今日と明日しかないんだよ、100パーセントの力を出さないうちに終わっちゃうよ!」。本当にすてきな校長先生である。

■当日の朝

スタッフとの作戦会議。お話を作るのが難しい1、テーマが難しい3、構成が難しい5、この3つのグループにわたしが入って一緒に作業することにして、ノムさん、古賀さんにはこの他の2と4のグループを中心にみてもらうことにする。
二日目は、創作の時間を一時間けずって3時間目創作、4時間目発表、5時間目感想意見交換と講評、6時間目演劇のゲーム、という予定だったけど、もし創作がうまくいかなかったり、もう一歩踏み込みたいのに時間が足りない場合は、あまり中途半端もよくないので、一日目と同じスケジュールにして、6時間目の演劇ゲームを中止することで合意してスタート。

■3、4時間目

昨日の校長先生の話をして、今日は100パーセントの力を出してくれとこどもたちに言う。

昨日、1「工場」グループのまとめ役に選ばれたTくんがなんと休んでしまった。プレッシャーからだろうか、明日はわたしも一緒に作るよ、とひと言言っておいたら来てくれただろうか。真相はわからないが、とにかく工場のいいところをリアルに語れるTくんがいないのは痛い。とにかくこのグループはまとめ役がいないので、まずここに入らなくてはならなかった。
グループのメンバーはまだ昨日の話にこだわっていた。ここは実はみんな活躍していいところを見せたいと思っている男の子たちが多く、自分自分になってしまい、それをまとめる人がいないのだ。だからみんなやる気はあるんだけど。まずは自分たちの街のことを具体的に現実的に考えてみようと提案する。紅一点のAちゃんの描写力がほしい。たのみの綱のAちゃんは、ものすごく恥ずかしがりで人形を使っても演技が嫌で仕方ないようだった。いやなら人形はしなくてもいい、劇作家的な役割をしてくれれば。すると「工場の煙で空気が汚くなって、空がへんな色になったってお母さんが言ってた」とAちゃん。そうそう、そういう話ほかにないかな?「川がきたなくなって魚がいっぱい死んだってじいちゃんが言ってた」と、Mくん。そうそうそういう話を入れようよ。でも工場のいいところはないのかな?工場があって助かってるのは誰?働く人。工場で作ったものを使う人。こどもたちはけっこうわかっている。それに工場は夢を作る。Tくんみたいに、工場で働きたいと憧れる子もいる。具体的に話せばどんどんこどもたちからでてくる。工場のことには我関せずで過ごしてきたHくんは、具体的な工場の話になると他の子みたいに知識がないので活躍できず、また我関せずとばかり一人で人形で遊び始めてしまった。時間がないこともあったが、Hくんにはあえて何も言わず、とにかくその調子で具体的に街のいいところ悪いところを表現して物語を作るように言って、話し合いが難航し、救いを求めている3「いじめ」グループに向かう。

3「いじめ」グループでは、昨日いじめられる役をやったパンダちゃんのHくんが、もういじめられる役は嫌だと主張。いじめられ役を決められずにいた。Hくんは手描きみたいなイラストのついたTシャツを着ていて、珍しいTシャツだね、と言ったら自分で描いたということだった。口数は少ないけど、独特な自分の世界を持った芸術家肌の子である。いくら遊びだっていじめられるのは嫌だよね、Hくんよくやった。いじめる役をやったみんな、演じてみてどうだった?いじめる人の気持ちわかった?「上靴を隠す時やっててはっとした。嫌だった。」みんな口々にいじめる役は嫌だったというが、じゃあいじめる役が嫌ならいじめられる役をやったらいいんじゃない?なぜみんないじめられる役は嫌なの?もう一度考えよう、なぜいじめるのかな?昨日、Fくんが「家庭で愛されていないストレスから友だちをいじめてしまうんじゃないか」って言ってたよね?「オレに言わせると大人が悪いよ!」憤ってMくんが言いきる。じゃ大人はなんでこどもをいじめるの?Kさんが続く。「家族の世話で自分の時間がないからイライラしてる」すごい、鋭い(焦)、、、「残業ばっかりだったり、会社の上の人にいじめられてる」すごい、こどもはやっぱりそうとう大人を見ている。じゃあ上の人はなんで会社員をいじめるの?昨日誰かが「お金・・・」とぽつりと言った。こういうふうにみていくと、こどものいじめの問題は大人の問題、社会全体の問題とも言えるよね。それにいじめる子といじめられる子、普通はいじめられる子を一方的にかわいそうと思うけど、本当にそうだろうか?それを考えながら、もう一度話を考えよう、と言ってやっぱり途方にくれている5「一人暮らし」グループに入る。

5「一人暮らし」グループ。一人一人ちゃんと具体的に考えてきたかな?それぞれがひとり暮らしを始めるところから始まるよ、最初の一週間、半年後、一年後、十年後をそれぞれ想像して台本を書いてみて、と指示。将来やりたいことは?の問いに「一人暮らし。ひとりぼっちになってしまった時のために慣れておきたいから」と書いたMさんは、人形劇の遊びだというのに、本当に不安そうな顔をしている。なにをするかな?「香水買ってきてリラックスする」どういう時さみしくなると思う?「一人でテレビ見たりご飯食べたりしてる時」寂しさをまぎらわす時、なにをする?「友だちと遊ぶ」「ペットを飼う」そんなふうに書いていけばいいよ、それに十年後はもう一人じゃなくて、家族ができてるかもしれないし。そういうと、Mさんはやっと気を取り直して鉛筆を持った。このグループの男の子たちはなんだかかわいらしくて、人形を大事にあつかったり、あんまり雄々しいタイプではなく、一人暮らしでなにする?と聞くとパソコンと答えたEくんに、ゲームでもするのかと思ってパソコンでなにするの?と聞くと「ご飯のレシピを探す」と答えたり、お料理したり、家事をしっかりやろうとする子たちだ。とくにテレたりすることもなく、彼女ができてデートしたり、なんて台本を書いていくので面白い。

それからまた1や3のグループの作業がちゃんと進んでいるか、このあたりをぐるぐる回るうちにあっという間に3、4時間目が終わり、6時間目の演劇ゲームのプログラムはカットになった。

■給食、掃除、昼休み

わたしたちスタッフは会議室でミーティング。まあ、3、4時間目はできることはやった。2「怖いものなし」グループがなかなか面白くなったという情報。
本当の勝負は二日目の今日だったから、気合いを入れてがんばったおかげか背中がばきばきになっていた。以前はこんなことはなかったのに、やっぱり育児と家事と仕事と、そして今回は引っ越しの準備がかさなって無理がたたったのか、4年ぶりの発作もたぶん過労とストレスだろうと思う。それでもこの仕事はどうしてもやりたかったし、実現できて本当によかった。それに引っ越せばまた状況は少しよくなるだろう。今回Kは実家の両親にあずけておいてきた。またいわきみたいに連れていって、エネルギーをそっちにとられて仕事がまっとうできなくてはやる意味がない。幸いKはじいとばあ、とくにじいが大好きで、実家に行けばわたしたち親がいるにもかかわらず、夜はよくじいと寝ている。わたしがいなくなって二日目の夜は「はっちゃん、ママー」と泣いたらしいが、泣いたのはその夜だけで、あとは元気に過ごしていたらしい。最終的には5泊、わたしと離れていた。両親に感謝である。
この昼休みに、劇場スタッフのインタビューの撮影があった。今回のワークショップの目標や意義などを話す。
ここまでなんとかきた。あとはこどもたちのがんばりを見せてもらう。
こどもたちは昼休み返上で人形劇の練習にいそしんでいた。

■5時間目

発表。

1「工場」のグループ。今日は最後までちゃんと発表できた。我関せずだったHくんもしっかり劇に参加している。作り声で演じているのがなんとも可笑しい。本人たちは多少恥ずかしがりながら、途中で放棄したい気持ちにもかられながら、でも負けずに、なんとか途切れずに演じ続けている。よくがんばった。昨日とはぜんぜん違う。ちゃんと工場の街のいいところ、悪いところ、両方入っていたし、具体的だった。ナレーションで片付けてしまう部分も減った。よくを言えばこの調子でもっと長く、構成を少し手伝いながら完成させられたら、とってもいいショート人形劇ができたんじゃないかと思う。

2「怖いものない」。昨日の話の続きができていた。門限破りでお母さんに叱られた主人公は家を出てとぼとぼと山へ歩く。途中、ともだちのカメと会うと、カメも門限破りで家を追われたということだった。そこへ津波がやってくる。カメもお母さんも、みんな死んでしまい、主人公だけが生き残る、という話ができていた。あいかわらずこのグループは、表現に関しては創意工夫がうまくて、チームワークもいい。作業中はみんな勝手なことしてるように見えるのに不思議だった。ごちゃごちゃしてなくて、ちゃんと「見せる」ことを意識してるし、面白い表現がうまいので、笑いがたくさん起きた。
しかし、本当に怖いこと=津波がくるというエピソードは入ったものの、それを本当に想像できただろうか。それすらも笑いになってしまっていたのだ。

3「いじめ」グループの物語は、二つのシーンからなる。「本当にかわいそうなのはどっち?」「本当に弱いのにつよがっていじめてしまう子」というタイトルがついていた。
初めに、親がこどもを虐待するシーンから始まる。これがなんだかとてもリアルだった。お母さん役で「オレに言わせれば大人が悪いよ!」と言ったMくんは、ちょっと俳優の素質のある子だった。ちょっとハスにかまえたとこがあって、感受性が豊か、表現に思い切りがあって面白く、自分の感情に正直、さらに思いやりもある、さめたとこもある、面白い子だった。
しかしもったいなかったのは、その後が続かず、ほとんどナレーションで「説明」してしまったのだった。二つ目のストーリーも一つ目との関連がなく、ただ状況を説明しただけになってしまったのが残念だったが、このグループも時間をかければしっかりした表現で作品を完成させることができると思うし、みんなが漠然と不安に思っていた「いじめ」問題に、自分事として真剣に取り組めたことがよかったと思う。

4「冒険旅行」グループ。ここにはほとんどかかわってあげられなかったことをちょっと後悔した。
一応北極みたいなところへ冒険旅行に出かけることになって、そこでなんだか熊に2回襲われて帰ってくるという話だったけど、なにを表現したかったのかよくわからず、熊に襲われることで未知の世界での困難さを表現していたのかな。もう少し深みのある話に導きたかった。でも手で洞窟を表現したりして、具体的な表現はとても工夫が見られてよかったんだけど。

5「一人暮らし」グループ。
「このグループ30分くらいあるんじゃね?」というヤジがとぶほど、ここはえらく長いストーリーになってしまった。一人暮らしの最初の一週間、半年後、一年後、十年後、こんなにいらなかったかな。これで5人分の人生をやって、最後の方は、たとえば一人一言「家族ができました」とかくらいで終わってよかったんだけど、どれもべったり長いストーリーにしてしまった子が多くて、かなり時間がかかった。見てるみんなは「長い長い」とヤジをとばしつつも、面白いので笑いながらけっこうあきずに見ていた。ほんとにおもしろかった。全員が全員、シーンの最後には「もう寝よ」と言って寝る。
「また寝ちゃったよー」と笑いが起きるけど、けっこうリアルで、なんか解決できない問題があるときは「とりあえず寝よ」みたいな知恵がこどもたちも中にもうかがえる。一人暮らしをとても不安がっていたMさんは結局ペットを飼って、十年後もひとりで暮らしていたが、だいぶ慣れたと言っていた。もう一人の女の子Iさんは、積極的でお兄ちゃんにも一人暮らしを進めたりしながらも十年後には結婚して家族を持って幸せに暮らしていた。男の子たちは、なんだかみんな料理がうまい。料理学校に通ったり、会社を作ったり、社会的な要素を入れながらも彼女ができたり分かれたり。具体的なデートの様子も面白かった。ちょっと長過ぎたものの、物語としてはここが一番面白かった。形をしっかり整える作業をすれば、作品としてもそうとう面白くなると思う。

6時間目の感想意見交換はまた次回に続く。





ワークショップ(小学生) in 北九州1

北九州でのワークショップと勉強会の3日間が終わった。
出発前日、4年ぶりに持病の発作にみまわれるというハプニングがあり、油断して薬を持っていなかったので仕方なく大事にしながらそのまま北九州へ出発、体調不良のままワークショップに突入という事態になってしまったものの、今年後半はこの仕事にかけて準備してきたので、とりあえず無事に終わってほっとしている。
おかげで移動日の夜、お誘いを受けていた泊さんたち「飛ぶ劇場」の門司倉庫での上演が見られなくなってしまったのは残念だったけど。
その泊さんは、自分の公演の本番中にもかかわらずわたしのワークショップを見学に来てくれた。それから地域創造の松本でのリージョナルシアター事業でご一緒したF'sカンパニーの福田さんと松本さんほか、たくさんの人が小学校に来てくれて、ギャラリーいっぱいでワークショップ始まった。

スタッフが先にこどもたちのところで、ガムテープに名前を書いてもらっていたけど、自分の呼ばれたい名前とか、普段呼ばれてる名前でいいよってことにしたら、みんなへんてこな名前ばっかりで、名前と顔が一致しずらくなってしまったので、二日目からは、ひらがなフルネームにしたらわかりやすくなった。これは反省点。それに地域によっては名前のみならず名字もすごく読みにくいことがある。

あいかわらずこどもたちは元気いっぱいだったけど、9月に会った時とはやっぱり少し印象が変わって、成長していた。6年生のこどもたちはこの時期とても変化しやすい。

■前日と当日の朝

スタッフとミーティングで、今回の目的とプロセスを打ち合わせしていた。
目的は二つ。一つは、こどもたちがどれだけ夢中で時を過ごしてくれるか。もう一つは、ふと自分の中に沈黙が生まれたりするような、気づきの時間をどれだけ作れるか、ということだった。
わたしたちはその目的を共有し、そういう時間を作るべくこどもたちと二日間を過ごす。
ここのこどもたちはわーっとテンションがあがって大騒ぎになりやすいので特に注意が必要だった。 
でも今回は多少大騒ぎがおこってもいいような時間を最初にとってある。
今回アシスタントをしてくれるのは、こちらから一緒に来てくれた俳優のノムさん、それと北九州地元の俳優の古賀さんという女性だが、二人の紹介もすっかり忘れてワークショップに入ってしまった。

■3、4時間目

まずは、人形劇のルールとスケジュールの説明。
26人で5つのグループに分かれてそれぞれのテーマで人形劇を作る。1グループ5〜6人、これが限度だろう。人形は劇場スタッフが約30個集めてくださった。とくに学芸Nさんのおうちからはたくさんの人形たちが参加してくれていた。
テーマと目的はそれぞれ、

1工場の街に住む子の物語
(自分の足下からの出発。自分の街を架空の街に置き換えることで客観的に見てみる。)
2怖いものがない子の物語
(「怖いものがない」とはどういうことなのか、本当に「ない」のか考えてみる。)
3いじめにあったらどうしようと思っている子の物語
(未知の世界の扉の前に立つ時に生じる不安や怖れと向き合ってみる。)
4冒険旅行をした子の物語
(大きなスケールのファンタジーを通して、未知の世界の困難や楽しさを表現してみる。)
5一人暮らしをした子の物語
(現実にいつかおとずれる「ひとり立ち」を、「一人暮らし」のテーマを通して想像してみる。)

事前調査とアンケートの結果からこの5つのテーマを考え、それぞれその答えを書いた子をひとりかふたりそのグループの代表としてわたしが選び、学芸Nさんの提案でグループ分けを先生にお願いすることになり、他のメンバーは担任のN先生が決めた。
どのグループもまとまらないと困るので、ひっぱる子を一人入れてくださるよう、先生にお願いしていた。
N先生は、中年?の男の先生で、口数は少ないけど腹のすわったすてきな先生で、嫌な威圧感もないのに、ふざけがちなこどもたちもこの先生の言うことならなんでもきく。そして独学で演劇の勉強をされていたこともあり、今回のワークショップには、本当に協力的に動いてくださっていた。

グループのメンバー発表があると、案の定みんなわーっ!となった。予想はついたのでその前にすべて説明はすませてすぐに作業に入れるようにしておいた。

一日目は3,4時間目で物語を作り、人形を使って練習、5時間目に発表、6時間目に感想や意見の交換と講評というスケジュールにした。
人形を先に選んでお話を作ってもいいし、逆でもいい、と言ったら、全員が人形を先にとりに行った。
それから声は地声はNG、人形に合った作り声を出すこと。これで自分自身と距離を作ることで、演じやすくさせようとしている。

一日目の劇の創作は、できるかぎりこどもたちのやりたいようにやらせること。
わたしたちはこどもたちからアイデアを引き出したりしながらその手助けをする。
ノムさんと古賀さんは俳優なので、各グループを回りながらとくに表現方法の引き出し役を積極的にやってくれていた。
わたしはその間、事前アンケート結果とこどもたちの顔と名前と特徴とをひとりひとり一致させ、N先生にこっそりと話を聞きながら、それぞれのグループの誰にどんな活躍をしてもらえるだろうかと作戦を練っていた。
だいたい午前中の2コマでどのグループもある程度はできたようだった。

■給食と掃除と昼休み

わたしたちはあえてこどもたちと給食はともにせず、会議室で給食を食べながら、午前中の様子を報告、確認しあったりしながら、午後に備えて作戦会議をしていた。スタッフたちの感想は、どのグループもある程度はいけそうだという感じだったけど、2の「怖いものがない子の物語」チームだけが、マイペースでおさなくふざけがちな男の子が集まってしまい、なんだか話がまとまらず、みんな勝手に人形で遊んだりしていて、ちょっと心配だった。なんでこの子たちが怖いものは「ない」と書くかがよくわかるようだった。このグループには、「とにかくひとりひとり勝手なことしがちだから、みんなで力をあわせて発表できればいいよ」と、言っておいた。
ところがこのグループが思わぬ大逆転を見せたのだった。

■5時間目

午後からの発表は1「工場の街に住む子の物語」から順番に行う。
最初の発表でわたしは青くなってしまった。この一番目のグループは、結局話がまとまらず、発表ができなくなってしまったのだ。他のグループもこうだったらどうしよう、そもそもこのプログラムは難しすぎたんだろうか、青くなりながらあれこれ心配事が頭をぐるぐる回る。回りつつもこのグループがどうしたかったのかだけを聞いてまとめて、とにかくグループにまとめ役がいないことが問題、と先生がTくんをまとめ役に指名して、その場はおさまった。Tくんはおじいちゃんが自動車整備工場をやっていて、そんなおじいちゃんに憧れているが、お母さんから医者になってほしいと言われている。怖いものはという質問に「死」と書くような繊細な子である。1のグループの考えたお話は、3人のこどものいる家族の話で、このこどもたちは工場で働いていて、一人が工場で火事を出したことで機械が壊れ、きたない空気をだすようになってしまい、街の空気が汚れ、その機械を修理して、空気がどんどんきれいになったというものだった。工場があっても空気がきれいであってほしいという彼らの願いがこめられた話ではあるが、具体的な生活の感覚がまったく描かれていなかった。「自分の街の嫌いなところは?」という質問に、「工場があるせいか風がふくと家の中が真っ黒になる」と書いてくれたAちゃんの詩的ですぐれた描写力を、このグループにはいかしてほしかった。

青くなりながら続いて2「怖いものがない子の物語」。このまとまらないグループが、表現としては一番面白くわかりやすくまとめて大逆転を見せてくれたおかげで、再びなんとかなるかも、と希望をいだいた。お話は、あるところに怖いものがない子がいて、遊園地に遊びにいって、ジェットコースターに乗っても、お化け屋敷にいっても、スカイツリーに上ってバンジージャンプをしてもちっとも怖くない、ところが門限すぎて家に帰ってお母さんに叱られて、いくら怖いものなしでもお母さんだけはやっぱり怖い、というかわいらしいオチ。怖いもの知らずの子の友だちのカメはのそのそ動いたり、ゆっくりしゃべったり、お母さん人形は鬼みたいな人形を使って不良みたいな言葉遣いで演じたり、他の人形をジェットコースターに見立てたり、あちこちにたくさんの創意工夫が見られ、ほんとうに楽しくうまくまとまっていたのにみんな驚いた。

3番目は「いじめにあったらどうしようと思っている子の物語」。ここは夢を使うという設定が上手にできていた。パンダちゃんがお友達たちに上靴を隠されたり、仲間はずれにされたり、いじめられるのだが、それは夢だった、という設定。翌朝みんなにその夢の話をして、みんなでいじめはよくないよね、と話し合うという、道徳のPRビデオのような作品になっていた。

4番目の「冒険旅行をした子の物語」は、けっこうお勉強のできる子たちが集まったせいか、まずそれぞれの人形のキャラクターを書き出すところから作業を始め、筋道をきちんとたてて創作をしていた。できた作品も「アルカリ星」に冒険にいったり、リトマス試験紙的なもので実験したり、理科の研究のような内容になっていた。確かに研究も立派な冒険である。

そして5番目の「一人暮らしをした子の物語」は、おともだちどうしがみんなで生活していたら、いじっぱりなブタくんがひとりでへそを曲げて、みんなは出ていってしまい、やっぱり一人はさみしいよう、ということでみんながもどってきてまた一緒に仲良く暮らしましたとさ、というお話。

1をのぞいてはどこのグループもある程度形にしてくれたのでとりあえずほっとする。

■6時間目

続けて感想、意見交換と講評の6時間目。
どこのチームのどういう表現の工夫が面白かった、という具体的で小さな表現に関する感想が続く。
「見立て」に関する感想もあって、こういう演劇の根本的な表現に言及してくるとは、小学生もなかなか鋭くあなどれない。

さてでは講師からの講評ということで、1以外、どのグループもよくがんばったし、面白い表現がたくさんあった、という前提の上、これからわたしが言うことをふまえて、明日はさらに今日作った物語の改良作業と二回目の発表をすると発表。それぞれのテーマに隠された目的、課題も講評とともに明かす。
1「工場の街」グループはとにかくしっかり作品を完成させること、Tくんの活躍に期待。工場の街のいいところ、わるいところをそれぞれしっかり表現に入れること。
2「怖いものなし」グループは本当に怖いもの、たとえば、311の震災では、家族や友だちをなくしてしまった人もいるし、アンケートに地震や津波や火事が怖いと書いた子たちや、自分や家族や友だちの死が怖いと書いてくれた子たちもいる、このグループには「怖いものはない」と書いた子たちが多いけど、本当にそうなのか、立ち止まって考えてみよう、と言ったところで、グループの男の子たちがくちぐちに「怖いものあるよー」と言いだした。なんだやっぱりあるんじゃん、じゃあ本当に怖いものも入れて、作り直そうよ、ということでまとまる。
3「いじめ」グループは、最後がいじめをなくそうみたいなスローガンになっちゃって、みんながいじめをなくしたい気持ちはわかるけど、その前になんでいじめが起きるのか考えてみよう、と問いかける。なんでいじめるの?「泣かせたい」なんで?「弱いとこが見たい」なんで?シーン・・・人をいじめたい気持ちはもしかしたら自分の中にもあるかもしれないよ、なんでいじめるの?「ストレスの発散」どうしてストレスがあるの?「家でDVにあってる」なるほど!じゃあ大人はなんでこどもにあたるの?誰かが「お金」とぽつりと言った。じゃあそれを手がかりに明日はなぜいじめが起きるのか考えながらもう一度作り直そう、ということにする。
4「冒険旅行」グループは、たとえばKくん(残念ながらこの日はお休みだったけど)が宇宙のように誰もいない空間に行ってみたいと書いてくれたけど、本当にそこに行ったらどんな気持ちになるだろう、そこまで行くのは簡単だろうか?ということを考えながら、もう一度作り直すこと。
5「ひとり暮らし」グループは、もっと現実的に、たとえば自分が一人暮らしをするとしたらまずどうする?「家具を買う」「家を買う」「家賃を払う」「料理する」「買い物する」「ネットする」いろいろな答えがあがる。そういうふうに、具体的になにするか、どういう時にさみしいと思うか、考えてきて、とする。

震災や死やいじめの話をした時、こどもたちは一瞬シンとなった。
小学生にこんな話をするのは初めてだった。
小学生に、よく知らないわたしのような者がこんな話をしてもいいんだろうか、と話しながら疑問も生まれたが、こどもたちの目は真剣で、深くわたしの言葉を受け止めてくれているのがわかった。
この子たちなら大丈夫、と思った。

この5つのショートストーリーは、実はつながっていることも明かす。これらのテーマは「過去・現在・ここという内の世界」から「未来・未知(外)の世界」へ、というふうになっていて、もしこれがちゃんとできたら、5の次にもう一度1をつなげて、外の世界を体験してきた後、もう一度今ここに戻った時、自分のいる場所がどんなふうに見えるだろうか、というふうにしたかったんだけど、それはもっと長期的な作業が必要になる。今回はとにかくお話や表現の「でき」は二の次、こどもたちがいかに立ち止まって自分の内なる声や不安や怖れと対話できるか、いかに自己や他者や世界についてなにか発見や再確認ができるか、ということを主軸にしているので、長期でできる機会があれば、表現まで完成させて保護者や下級生に発表する、というところまでいけたらいいなと思う。

今回、創作と発表を二回おこなう理由は、このクラスのようにやりたがりの子たちが多い場合(やりたがりの俳優と同じように)、まずは好きなようにやって発散してもらって、次にこちらの話を聞いてもらいやすい状態にするためと、それから一度目に好きにやってもらうことでこどもたちの考えや様子がわかり、二度目にそれをベースにしてできるだけこどもたちのアイデアのいいところを生かしながら一緒に作り直しができるからだ。

でとりあえずみんなそれぞれ課題を家でも考えてくる、ということで一日目のワークショップは終了した。

放課後、スタッフと先生たちとのフィードバック。こういう時間がしっかりとってもらえるのは嬉しい。いじめや死の話を思わずしたことは自分でもけっこうショッキングなことで、こんなことを小学生に話したのは初めてだったことを先生方に伝えた。
でも最近ワークショップでは先生の注文を聞いて道徳的になりすぎていると自分で感じていて、学校では道徳的なことをおしえなければならないのはよくわかるが、たとえば「いじめはよくないからやめよう」と言う前に、どうしていじめが起きるのかを立ち止まってくわしく考えてみよう、ってことをしたかったので、今回は本当にやりたかったことをやらせてもらっている、今日こどもたちが作ったのもとても道徳的な物語だった、と話すと、「道徳的なのはこどもたちなんですよ」と、校長先生がぽりつと言った。
N先生は、「自分の中にもいじめたい気持ちがあるから、いじめる演技ができるんだ」と、「自分の中にいじめたい気持ちはない?」とわたしが聞いた時答えなかったこどもたちのことを言った。
この答えは、やっぱりN先生が演劇を勉強していたからだろうか?他の先生方にどれくらいこんな話は通じるんだろう?
学校でワークショップをする時、先生方と意思疎通がうまくいくことは少なくて、どうしたらもっと理解してもらえて、演劇を教育にとりいれる活動を普及できるだろうかと思うのだ。





出産育児をテーマに/北九州

北九州芸術劇場で行う勉強会のテーマはたしか「出産育児を表現にいかす」だと思っていたけど、正確にはなんだったかな?と思い、確認のため、北九のHPの「アーティスト往来プログラム」を見てみたら、以下のような説明になっていた。

http://www.kitakyushu-performingartscenter.or.jp/entry/2011/0425artist.html
勉強会
【内容】阿部氏のこれまでの活動と、出産・子育て等をテーマに作品製作・ワークショップ実施の可能性を探ります。

ということは、わたしの活動についての話でいいのかな?

以前ブログにも書いたように、「出産・子育て」のテーマは、演劇の世界ではほぼ切り捨てられてきたゆえ、いずれこれをテーマに作品を作りたいと思っている。
ワークショップに関しては、数年前に、親子対象の演劇ワークショップはできないものか?という相談を受けていたのだが、こどもを持たないわたしには実際的、具体的に考えつかなかった。ところが、自分がこどもを産んでみたら、また都内の某劇場から「子育てを考える」をテーマに親子対象のワークショップの依頼があり、今度は自分もこどもを持っているので、自分の体験をもとに、ワークショップの内容を考えることができた。

それは今まで作ってきた「アトミック・サバイバー」などのドキュメンタリー作品の製作の方法を利用したもので、「子育て」のいろんな要素を、人形を使ったり、映像を使ったり、歌を使ったり、語りやリーディングを使ったりしながら、いろんな表現の方法で表現を試みて、最後に短いシーンをつなげて試験的に発表会をする、というアイデアだった。
これならなんだか楽しくできそうだ、と思った。
しかし対象は親子に限らず、子育てに関心のある人ならば年齢性別を問わず、誰でも参加可で、むしろその方がありがたく、たぶん詳しい内容はいつものごとく、参加メンバーによって決まる。わたしはいつもワークショップでは、集まったメンバーの特性を見て、なにをしたら面白くなるかを考えている。
なので、それがつかみきれない一日かぎりのワークショップが苦手なのだが。

以前こどもを持たない時には考えられなかったプログラムが考えられるようになったことには感謝である。
そして来年度に都内で行うこの「子育てを考える」ワークショップの内容は、きっと作品作りにつながる要素を持つものになると思う。

テーマは、「出産・育児」を通してわたしたちは何を見たり体験したりすることができるのだろう。
というあたりから出発してみようかな。
勉強会に来てくださる方にもそのへんを聞いてみよう。




「見る/見られる」、育児と演劇/北九州

「見る/見られる」は、演劇を成立させる基本的動作だが、最近、Kを見ていて、この「見る/見られる」について、少し思うところがでてきた。

Kはとにかく嫌々が激しいこどもで、とくに体を触られるのがあまり好きじゃないらしい。
あかちゃんの時から抱っこをしても機嫌がよくならなかったし、泣きやまなかった。おんぶも好きじゃなかった。一才半過ぎた頃やっと、ほんとうに時たま自分から「抱っこ」というようになって、めずらしいなと思った。
だから歯磨きをさせられたり、鼻水を吸われたり、薬を飲まされたりする時に、体を押さえられるのをものすごく嫌がる。でも押さえないと逃げてしまうので、押さえざるを得ない。どんなにほめられてもこればかりは嫌、という感じだ。
ところが最近、歯磨きのために率先して仰向けになり、口をあけるような事態が起こった。
わたしが人形を二つ手に持ち、「わーすごいねー、K、歯磨きするんだって、あ、おおきいおくちあけてるよ、えらいねー、パパに歯磨きしてもらうんだって、いいねー」とやったら、わたしがいくらほめても効果がなかったのに、この小さな見物たちに言われたことで、すっかり得意になって、積極的に歯磨きに協力し始めたのだ。
もっと嫌な「鼻吸い」でさえ、この手を使ったらみずから仰向けになった。その得意げな様子はホント、笑いをこらえるのが必死なくらいおかしかった。
それ以来、Kはこの人形たちをわたしのところに持ってきてはぜひとも人形劇をやってくれとせがむ。
この小さな見物人たちの視線を必要としているようだった。

話は飛ぶが、よく公園に動物なんかの形をした、こどもが乗るとバネでぴょんぴょん動く乗り物がある。一才をすぎた頃、Kが初めてこれに乗ったときのこと。最初、馬かなんかの形のに乗っていると、すぐに隣にある虫の形の方に乗りたがった。「あっち、あっち」というので、馬からおろして虫に乗せるとまたすぐに馬をさして「あっち、あっち」と言う。でまた馬に乗るとすぐに虫をさして「あっち、あっち」というのだ。それ以来、この手の乗り物ではいまだにこれを繰り返している。

Kは、はじめ視覚的に馬に興味を持って乗りたがったのだが、実際自分が乗ってしまうと馬は見えなくなってしまい、今度は全体が見える隣の虫の方に乗りたがったのだが、虫に乗ると今度は虫が見えなくなって、全体が見える馬にまた乗りたがり、これの繰り返しになってしまうということだ。
Kは馬に乗っている自分も馬も見えないので、自分が乗りたかった馬に乗っているという実感が得られなかったのだろう。
しかしたとえばこの時、あの小さな見物人たちがやってきて、「わあーすごいねー、Kがおうまさんにのってるよー、いいなー」なんてやったらどうだろうか。もしかしたらまた得意げな顔で馬を操作し始めるかもしれない。

この見物人たちは、Kにとって、自分のおかれている状況を客観的に見る装置としての役割を果たしている。
その装置によって、主観的には嫌な状況だと思っていたら、まわりの他者から客観的に見ると実はいい状況だったらしい、とか、大人っぽくふるまうことで賞賛されたいとか、客観的に自分を認識しなおして行動を変えるという作業を行っている。
これは大人でもよくあることだが、演劇的にはこれは「異化」と言われるものにあたる。
あたりまえにこうだと思っていたものが、ちょっとしたきっかけで違って見えてくることをさす。

人は、自分という存在やまわりの状況がわからない時、他者の視線を通して自分を客観的に見ることによって、自分のおかれている状況や自分という存在を認識する。
そしてそれは言語化するという行為なのだろうかと思ったが、そうでもない。たとえば自分を見る他者に笑顔が見られればそれでことは足りる話だ。

Kにこんなそぶりが見られたのは、もっと赤ちゃんの頃からだった。それは人形ではなかったが、「たかいたかい」をしてもらう時、たいていの場合、ちかくにいるわたしや他の大人の顔を見ていた。
見られていることを通して、「たかいたかいしてもらっている」自分の存在を確認していたのかもしれない。

話が前後していることに気づいた。
Kは赤ちゃんの時、たかいたかいをしてもらっている自分を見られることで、自分の存在やおかれた状況を確認し、喜んでいた。
一才半を過ぎて言葉の理解が進み、世界の認識が進み、自分が少しではじめてくると、見られることで、自分の存在やおかれた状況を客観的に認識しなおし、さらに自ら行動を変えるということをするようになってきた、ということだ。

「見られる」だけでなく、「見る」ことでもこどもは行動を変える。
よくこども番組で、実際のこどもが歯磨きをしたり、おトイレで用を足したり、ご飯を食べたり、服をきたり、靴下や靴を履いたりする短い映像が流れているが、あれは、そういう生活の基本的な習慣を嫌がる多くのこどもが、おともだちがやっているのを見て、だったら自分もやってもいいという気持ちになるのをねらうものだ。実際Kもあれを見て、歯磨きの第一関門を突破できた。もちろん映像より、生のおともだちの方がよくて、一時保育に通ううちに、年上のこどもたちの様子を見ながら、ずいぶんいろんなことができるようになっていった。
自分は嫌だと思っている歯磨きをおともだちは嫌がらずにやっていて、そして大人がその様子を賞賛している、となればなおさら、自分だってやってやるーという気持ちになるらしい。もし大人がその様子を賞賛していなかったとしても、まんざら嫌なものでもないのかもしれない、と嫌がるのをやめるのかもしれない。
こどもは自分と同じくらいの年齢のこどものすることにとても興味を持つ。そして対抗心をもったりするらしい。だから歯磨きの時、いくらわたしがほめても効果がなかったのに、小さな見物人=「おともだち」にほめられたことで、Kは行動を自らただしたのだろう。

こうして「見る/見られる」を通してこどもは成長していくのだ。

そしてそのような原理を根本に持つ演劇も、人を成長させることは間違いない。




育児の方法/北九州

じんましんがでたり、軽い喘息の発作が時々でたりはするものの、ここのところあんまり病気しないな、と思っていたら、Kの中耳炎をきっかけにわたしも熱をだし、ここ一週間なかなか回復しない。

ゆうべは太田省吾作「砂の駅」の初日を見に行くはずだったのに、夕方になっても熱が下がらず、長く起きていることもできず、とうとうキャンセルしてしまった。今朝は昨日よりは少しいいみたいだけど、やっぱりまだ長く起きていられず、動こうとするとめまいがしてくる。公演は日曜までだから、回復すればなんとか見に行きたいところだけど。

だいたい病気は決まってKの病気から始まる。Kの病気は保育園でもらってくることが多い。
多いのは風邪だ。鼻水がみえたと思ったら即中耳炎になり、中耳炎になると夜中に何度も泣くからこっちも寝不足になる。ご飯とか固形物を食べなくなったり、小児科でもらう抗生剤の影響もあったりして下痢をする。一日にたくさん水みたいなうんちをする。皮膚が弱いので、すぐとりかえないとお尻がかぶれて真っ赤になるのに、痛がってよけいにオムツ替えを嫌がり、嘘をついたり逃げ回ったり、力づくで抵抗するのをこっちも負けずに力をだして足をおさえてなんとかオムツ替えをする。お尻かぶれに薬を塗る。一日4回、嫌がる薬を飲ませる。牛乳や野菜ジュースしか飲みたがらないKになんとか固形物を食べさせる。その間にも後から後から出続ける鼻水を吸う、もちろんこれも泣き叫んで抵抗するので力づくになる。これだけの重労働に、睡眠不足が重なって、そもそも基礎体力が落ちてるから、すぐこっちも病気になる。病気になって眠ったり休んだりしたくてもKがそれをさせてくれない。横になって半部うとうとすると、寝せるまいと泣きながらわたしの頭を持ち上げようとする。
こうしてがんばって対応しているので、まだ切開にはいたらずに済んでいるが、中耳炎とはとても恐ろしい病気なのだ。
しかしこどもによっては、どんなに鼻水をたらしていても全く中耳炎にならない子もいるので、親はこんな苦労はしなくて済むのだが。

そんな状況の中、今月下旬にせまった北九州での「育児出産を表現に結びつける勉強会」の準備でまた出産育児について考えている。まとまらないまま思うことを少しずつ書いてみる。

近頃、Kより少し上、3歳のこどもを持つ旧友Mちゃんと産後初めて会って話をした。
お互いこどもをつれているとほとんど話ができないので、こどもはあずけて会った。Mちゃんとわたしは同世代なので悩むところは本当に一緒だった。わたしより一年半はやく「母」になったMちゃんには、これまでも携帯でなんどもやりとりし、いろんな助言をもらって助かっていた。実は結婚もそうで、わたしが結婚できたのもMちゃんの助言によるところが大きい。
Mちゃんの夫はイギリス人なので、こどもはハーフになるのだが、わたしの知り合いにはなぜかハーフの子が多い。ハーフのこどもたちはみんな決まってパワフルで、その子たちにくらべるとKなどぜんぜん手がかからないほうじゃないか?とさえ思えてくる。親たちはよくやっている。

Mちゃんは、とても考え方のしっかりした女性だ。やっぱりママ友のグループ作りには参加していない。Mちゃんは育児についても少しは学校で教えるべきだ、と言っていた。たしかに、わからないことが多すぎるのだ。
わたしより10年以上はやくこどもを産んだKさんは、わたしが「育児がこんなにたいへんだとは知らなかった!」と言うと、「みんながそれを先に知ってたらこどもを産む人がいなくなっちゃうじゃない」と言っていて、それも一理あるかとも思った。
学校で教えないかわりに、自治体が妊婦向けに開く「ママ教室」があったり、産後の母子対象イベントがあったりするのだろうが。そこで習うことは、自分たちの親世代の子育て観とまっこうから対立し、イコール母vs祖母という対立を生む。わたしもそれが原因で母親や母親世代の女性たちと育児の方法について何度対立したかわからないし、まわりでもそういう声を多く聞く。
昔はわからずに当たり前にされていたことが、科学的に実証されて今は禁止されていたりするのだが、実績があるからと昔の方法にこだわって今のやり方を受け入れない母親世代と、今の方法を固守しようとする娘世代の対立だ。
たとえば、今は口移しと砂糖の多い食べ物を与えることを3歳くらいまで禁止すれば、ほぼ一生虫歯にならない強い歯が作れるということが科学的にわかり、歯科衛生士が徹底して指導し、親たちががんばるので、昔にくらべて虫歯のある子が少なくなっているというが、そんな話はテレビでもやってないし、聞いたことがない母親世代は、そう説明しても信じようとしない。
大きな病院の薬剤師の女性も知らないと言い、薬をアイスクリームにまぜて食べさせるのは常識、と言い切る。
それから母乳と粉ミルク。母親世代は粉ミルクがいいという考え方がアメリカから入ってきたことによって、母乳ではなく粉ミルクで育てたという女性も多い。ところが今は、母乳の方が、いろいろなリスクから赤ん坊を守れるということが科学的に実証されたので、母乳育児が推奨されている。
ちなみに産院の母乳教室では、できれば母乳は2年以上あげられると、母体にもいい影響があり、その後カルシウムリバウンドがおこって、カルシウムの吸収率があがることが科学的にわかっている、と聞いた。わたしもなんとか2年、と思ったが、あまりのきつさに1年半で断念した。
母は母乳の出がよかったため、母乳で苦労したことはないと言っていたが、わたし自身は最初のうち母乳の出が悪かった。母は孫のかわいさに粉ミルクを自分で与えたがったが、粉ミルクばかり飲ませていると、母乳の出はさらに悪くなるという話を産院で聞き、母にミルクばかりあげるのはやめてほしいと頼んだが、産後の対立で感情的になっていた母は、「母乳なんかやめればいい」と返してきた。
産後しばらくはホルモンの関係でこっちも感情的でナーバスになっているので、ひと月の里帰りは毎日が「帰る」「出ていけ」の大喧嘩だった。
ひと月の里帰りが終わってしばらく距離ができて時間がたつと双方反省して、また歩み寄りはあったものの、産後の一番体のきつい時にこの大喧嘩は、本当にこたえた。
それから母乳またはミルクをあげる間隔、紙オムツと布オムツ、白湯と果汁、離乳食、対立の要素は他にもまだまだある。

物理的な世話の他、しつけなど精神的な面での育児もある。
泣き続けるこどもをどうしたらいいのか、しつけはいつから始めればいいのか、嫌がる生活の基礎的な習慣をどうつけさせたらいいのか、本当にわからないことだらけなのだ。
わたしより少しはやく育児を始めた友人Yも、「育児書を何冊読んだかわからない」と言っていた。そしてその後「結局どの本を読んでも答えは出なかったから読むのをやめた」と続けた。
わたしもずいぶん育児書はかじり読みした。よく育児中に本なんか読めるねと言われたけど、救われたい一心で、まだこどもが今よりは昼寝してくれた頃に、ちょこちょこと必死で救いの一文を求めて拾い読みしていた。しかしその大半は、Yのいうように同じようにあたりさわりのないことしか書いていない、結局のところ救いのない、一冊あればいいような本ばかりだった。

しかしその中にも出会えて救われた珠玉の数冊がある。

■親だからできる赤ちゃんからのシュタイナー教育 こどもの魂の、夢みるような深みから
ラヒマ・ボールドウィン著
「赤ちゃんは愛です。赤ちゃんは親を愛しています。親が赤ちゃんを愛するよりもたくさん愛しているのです。子どもは、自分を虐待する親でさえ愛するのです。でも親の方は、忙しい日常の中に、二十四時間注意を必要とする別の存在を割り込ませるという結びつきを作っていかなければならないのです。子どもは、愛と信頼をたっぷり持ってこの世に入ってきます。かれらはまだ善と悪を見分けることができず、全てを自分にとって良いもの、吸収し無意識のうちに模倣するのにふさわしいものとして受け取るのです。」
初めて出会った救いの言葉。赤ちゃんが愛おしい存在であることを思い出させてくれた。
「赤ちゃんと一緒に生きるということは、たくさんの繰り返しをすることでもあります。おむつ替え、授乳、洗濯などなど。こういったものは創造的な発展のない、維持するだけの仕事のように見えます。ですから夫が仕事から帰ってきて、「今日はどんなことをしたの?」と聞いたりすると、あなたはわっと泣き出すのです。私は最初の二ヶ月で、赤ちゃんの世話以外のことは、もし幸運に恵まれれば一日に一つだけ達成できる、ということがわかりました、行動的で社会的だった人間にとっては、これは本当にショッキングなことです。」
やっぱりそうだったのか、はやく言って〜!と思った。

■子どもはあなたに大切なことを伝えるために生まれてきた 「胎内記憶」からの88のメッセージ
池川明著
こどもの胎内記憶のリサーチをしてきた産科医の本。とても興味深い胎内記憶のデータから、池川氏が読みとくメッセージは不思議な説得力に満ちていて、育児に苦労する多くの親が読んだらどれだけ救われるだろうと思う。妊娠中に出会いたかった。88のメッセージはどこから読んでもいいので、短いこまぎれの時間でちょこちょこ読めるのも助かる。

■手のかかる子の育て方
山田真著
ご自身も障害を持つ子を育てられたベテラン小児科医の本。親を悩ませる、病気もふくめたこどもの問題のデータと対処法がわかりやすく書かれていて助かったけど、それよりこの著者の親としてのたおやかな強さ、優しさ、潔さ、行動力に脱帽。つまるところ育児に正解はない、とおしえられた本。こどもの問題を通した社会批評を書いたあとがきがすごくいい。以前、「4.48サイコシス」という作品を作ったときに取材した「べてるの家」を思い出した。
しかし育児に正解はなく自由にしていい、と言われたとき、今の親たちはむしろそちらに困難さを感じるのではないだろうか。しかし自分の親世代の育児の仕方を見ていると、「こうしたい!」というのがはっきり見えて、それはわたしたちには考えられないようなユニークな方法で、だから自分のような人間が育ったのか、、と半ば納得させられるのがなんとも言いようのない気持ちだけど、やっぱり団塊の世代は個性的でパワフルでユニークだな、と思う。

それから今年「くれよんハウス」で出会った本たちがまたよくて、それはまた次回。





プロフィール

drecom_abehatsumi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ