「見る/見られる」は、演劇を成立させる基本的動作だが、最近、Kを見ていて、この「見る/見られる」について、少し思うところがでてきた。
Kはとにかく嫌々が激しいこどもで、とくに体を触られるのがあまり好きじゃないらしい。
あかちゃんの時から抱っこをしても機嫌がよくならなかったし、泣きやまなかった。おんぶも好きじゃなかった。一才半過ぎた頃やっと、ほんとうに時たま自分から「抱っこ」というようになって、めずらしいなと思った。
だから歯磨きをさせられたり、鼻水を吸われたり、薬を飲まされたりする時に、体を押さえられるのをものすごく嫌がる。でも押さえないと逃げてしまうので、押さえざるを得ない。どんなにほめられてもこればかりは嫌、という感じだ。
ところが最近、歯磨きのために率先して仰向けになり、口をあけるような事態が起こった。
わたしが人形を二つ手に持ち、「わーすごいねー、K、歯磨きするんだって、あ、おおきいおくちあけてるよ、えらいねー、パパに歯磨きしてもらうんだって、いいねー」とやったら、わたしがいくらほめても効果がなかったのに、この小さな見物たちに言われたことで、すっかり得意になって、積極的に歯磨きに協力し始めたのだ。
もっと嫌な「鼻吸い」でさえ、この手を使ったらみずから仰向けになった。その得意げな様子はホント、笑いをこらえるのが必死なくらいおかしかった。
それ以来、Kはこの人形たちをわたしのところに持ってきてはぜひとも人形劇をやってくれとせがむ。
この小さな見物人たちの視線を必要としているようだった。
話は飛ぶが、よく公園に動物なんかの形をした、こどもが乗るとバネでぴょんぴょん動く乗り物がある。一才をすぎた頃、Kが初めてこれに乗ったときのこと。最初、馬かなんかの形のに乗っていると、すぐに隣にある虫の形の方に乗りたがった。「あっち、あっち」というので、馬からおろして虫に乗せるとまたすぐに馬をさして「あっち、あっち」と言う。でまた馬に乗るとすぐに虫をさして「あっち、あっち」というのだ。それ以来、この手の乗り物ではいまだにこれを繰り返している。
Kは、はじめ視覚的に馬に興味を持って乗りたがったのだが、実際自分が乗ってしまうと馬は見えなくなってしまい、今度は全体が見える隣の虫の方に乗りたがったのだが、虫に乗ると今度は虫が見えなくなって、全体が見える馬にまた乗りたがり、これの繰り返しになってしまうということだ。
Kは馬に乗っている自分も馬も見えないので、自分が乗りたかった馬に乗っているという実感が得られなかったのだろう。
しかしたとえばこの時、あの小さな見物人たちがやってきて、「わあーすごいねー、Kがおうまさんにのってるよー、いいなー」なんてやったらどうだろうか。もしかしたらまた得意げな顔で馬を操作し始めるかもしれない。
この見物人たちは、Kにとって、自分のおかれている状況を客観的に見る装置としての役割を果たしている。
その装置によって、主観的には嫌な状況だと思っていたら、まわりの他者から客観的に見ると実はいい状況だったらしい、とか、大人っぽくふるまうことで賞賛されたいとか、客観的に自分を認識しなおして行動を変えるという作業を行っている。
これは大人でもよくあることだが、演劇的にはこれは「異化」と言われるものにあたる。
あたりまえにこうだと思っていたものが、ちょっとしたきっかけで違って見えてくることをさす。
人は、自分という存在やまわりの状況がわからない時、他者の視線を通して自分を客観的に見ることによって、自分のおかれている状況や自分という存在を認識する。
そしてそれは言語化するという行為なのだろうかと思ったが、そうでもない。たとえば自分を見る他者に笑顔が見られればそれでことは足りる話だ。
Kにこんなそぶりが見られたのは、もっと赤ちゃんの頃からだった。それは人形ではなかったが、「たかいたかい」をしてもらう時、たいていの場合、ちかくにいるわたしや他の大人の顔を見ていた。
見られていることを通して、「たかいたかいしてもらっている」自分の存在を確認していたのかもしれない。
話が前後していることに気づいた。
Kは赤ちゃんの時、たかいたかいをしてもらっている自分を見られることで、自分の存在やおかれた状況を確認し、喜んでいた。
一才半を過ぎて言葉の理解が進み、世界の認識が進み、自分が少しではじめてくると、見られることで、自分の存在やおかれた状況を客観的に認識しなおし、さらに自ら行動を変えるということをするようになってきた、ということだ。
「見られる」だけでなく、「見る」ことでもこどもは行動を変える。
よくこども番組で、実際のこどもが歯磨きをしたり、おトイレで用を足したり、ご飯を食べたり、服をきたり、靴下や靴を履いたりする短い映像が流れているが、あれは、そういう生活の基本的な習慣を嫌がる多くのこどもが、おともだちがやっているのを見て、だったら自分もやってもいいという気持ちになるのをねらうものだ。実際Kもあれを見て、歯磨きの第一関門を突破できた。もちろん映像より、生のおともだちの方がよくて、一時保育に通ううちに、年上のこどもたちの様子を見ながら、ずいぶんいろんなことができるようになっていった。
自分は嫌だと思っている歯磨きをおともだちは嫌がらずにやっていて、そして大人がその様子を賞賛している、となればなおさら、自分だってやってやるーという気持ちになるらしい。もし大人がその様子を賞賛していなかったとしても、まんざら嫌なものでもないのかもしれない、と嫌がるのをやめるのかもしれない。
こどもは自分と同じくらいの年齢のこどものすることにとても興味を持つ。そして対抗心をもったりするらしい。だから歯磨きの時、いくらわたしがほめても効果がなかったのに、小さな見物人=「おともだち」にほめられたことで、Kは行動を自らただしたのだろう。
こうして「見る/見られる」を通してこどもは成長していくのだ。
そしてそのような原理を根本に持つ演劇も、人を成長させることは間違いない。
Kはとにかく嫌々が激しいこどもで、とくに体を触られるのがあまり好きじゃないらしい。
あかちゃんの時から抱っこをしても機嫌がよくならなかったし、泣きやまなかった。おんぶも好きじゃなかった。一才半過ぎた頃やっと、ほんとうに時たま自分から「抱っこ」というようになって、めずらしいなと思った。
だから歯磨きをさせられたり、鼻水を吸われたり、薬を飲まされたりする時に、体を押さえられるのをものすごく嫌がる。でも押さえないと逃げてしまうので、押さえざるを得ない。どんなにほめられてもこればかりは嫌、という感じだ。
ところが最近、歯磨きのために率先して仰向けになり、口をあけるような事態が起こった。
わたしが人形を二つ手に持ち、「わーすごいねー、K、歯磨きするんだって、あ、おおきいおくちあけてるよ、えらいねー、パパに歯磨きしてもらうんだって、いいねー」とやったら、わたしがいくらほめても効果がなかったのに、この小さな見物たちに言われたことで、すっかり得意になって、積極的に歯磨きに協力し始めたのだ。
もっと嫌な「鼻吸い」でさえ、この手を使ったらみずから仰向けになった。その得意げな様子はホント、笑いをこらえるのが必死なくらいおかしかった。
それ以来、Kはこの人形たちをわたしのところに持ってきてはぜひとも人形劇をやってくれとせがむ。
この小さな見物人たちの視線を必要としているようだった。
話は飛ぶが、よく公園に動物なんかの形をした、こどもが乗るとバネでぴょんぴょん動く乗り物がある。一才をすぎた頃、Kが初めてこれに乗ったときのこと。最初、馬かなんかの形のに乗っていると、すぐに隣にある虫の形の方に乗りたがった。「あっち、あっち」というので、馬からおろして虫に乗せるとまたすぐに馬をさして「あっち、あっち」と言う。でまた馬に乗るとすぐに虫をさして「あっち、あっち」というのだ。それ以来、この手の乗り物ではいまだにこれを繰り返している。
Kは、はじめ視覚的に馬に興味を持って乗りたがったのだが、実際自分が乗ってしまうと馬は見えなくなってしまい、今度は全体が見える隣の虫の方に乗りたがったのだが、虫に乗ると今度は虫が見えなくなって、全体が見える馬にまた乗りたがり、これの繰り返しになってしまうということだ。
Kは馬に乗っている自分も馬も見えないので、自分が乗りたかった馬に乗っているという実感が得られなかったのだろう。
しかしたとえばこの時、あの小さな見物人たちがやってきて、「わあーすごいねー、Kがおうまさんにのってるよー、いいなー」なんてやったらどうだろうか。もしかしたらまた得意げな顔で馬を操作し始めるかもしれない。
この見物人たちは、Kにとって、自分のおかれている状況を客観的に見る装置としての役割を果たしている。
その装置によって、主観的には嫌な状況だと思っていたら、まわりの他者から客観的に見ると実はいい状況だったらしい、とか、大人っぽくふるまうことで賞賛されたいとか、客観的に自分を認識しなおして行動を変えるという作業を行っている。
これは大人でもよくあることだが、演劇的にはこれは「異化」と言われるものにあたる。
あたりまえにこうだと思っていたものが、ちょっとしたきっかけで違って見えてくることをさす。
人は、自分という存在やまわりの状況がわからない時、他者の視線を通して自分を客観的に見ることによって、自分のおかれている状況や自分という存在を認識する。
そしてそれは言語化するという行為なのだろうかと思ったが、そうでもない。たとえば自分を見る他者に笑顔が見られればそれでことは足りる話だ。
Kにこんなそぶりが見られたのは、もっと赤ちゃんの頃からだった。それは人形ではなかったが、「たかいたかい」をしてもらう時、たいていの場合、ちかくにいるわたしや他の大人の顔を見ていた。
見られていることを通して、「たかいたかいしてもらっている」自分の存在を確認していたのかもしれない。
話が前後していることに気づいた。
Kは赤ちゃんの時、たかいたかいをしてもらっている自分を見られることで、自分の存在やおかれた状況を確認し、喜んでいた。
一才半を過ぎて言葉の理解が進み、世界の認識が進み、自分が少しではじめてくると、見られることで、自分の存在やおかれた状況を客観的に認識しなおし、さらに自ら行動を変えるということをするようになってきた、ということだ。
「見られる」だけでなく、「見る」ことでもこどもは行動を変える。
よくこども番組で、実際のこどもが歯磨きをしたり、おトイレで用を足したり、ご飯を食べたり、服をきたり、靴下や靴を履いたりする短い映像が流れているが、あれは、そういう生活の基本的な習慣を嫌がる多くのこどもが、おともだちがやっているのを見て、だったら自分もやってもいいという気持ちになるのをねらうものだ。実際Kもあれを見て、歯磨きの第一関門を突破できた。もちろん映像より、生のおともだちの方がよくて、一時保育に通ううちに、年上のこどもたちの様子を見ながら、ずいぶんいろんなことができるようになっていった。
自分は嫌だと思っている歯磨きをおともだちは嫌がらずにやっていて、そして大人がその様子を賞賛している、となればなおさら、自分だってやってやるーという気持ちになるらしい。もし大人がその様子を賞賛していなかったとしても、まんざら嫌なものでもないのかもしれない、と嫌がるのをやめるのかもしれない。
こどもは自分と同じくらいの年齢のこどものすることにとても興味を持つ。そして対抗心をもったりするらしい。だから歯磨きの時、いくらわたしがほめても効果がなかったのに、小さな見物人=「おともだち」にほめられたことで、Kは行動を自らただしたのだろう。
こうして「見る/見られる」を通してこどもは成長していくのだ。
そしてそのような原理を根本に持つ演劇も、人を成長させることは間違いない。