阿部初美のブログ

演劇の演出家です。

演劇ワークショップ

今回のワークショップの結果

今回のワークショップがどうだったのか、今後のためにもしっかりふりかえっておこうと思う。

■目的

こどもたちに自己や他者、世界への気づきの体験を目的としていた。知らなかった面を見たり、こうだと思っていたら意外と違うところもあった、とか、わかっていたと思っていたことがわからなくなったり、疑問が生まれたり、そんな体験をしてほしいと思っていた。
これは普段作品製作の現場でも、作品が観客にとってそういうものであってほしいと思っているのだが、それを称して「思考の場としての演劇」という文章を書いたことがある。今回の目的ももっと単純に「立ち止まって考えたり感じたりしてみること」としてしまってもよかったのかもしれない。
そしてその思いを表現すること。
こどもたちに気づきの体験がどの程度あったのかを知るのは後のアンケートはあるが難しいし、その気づきはずっと未来にやってくるものもあるだろう。
立ちどまって考えたり感じたりすることができたか否かは、こどもたちのその場の反応でわかる。
今回は急ぎ足で作業に追われたことによって、こどもたち自身が気づきを気づきとして認識する時間、自己や他者の変化を認識する時間、立ち止まって感じてみる時間が足りなかったが、特定のグループや一部のこどもたちには問題に対する態度にはっきりと変化が見られ、わたし自身はそれなりの手応えを感じることができた。

■方法

人形劇というスタイル:
嫌がる子も若干いたけど、とりあえず全員参加できた。自分自身が演じるよりはやりやすかったと思う。声を自分の普段の声ではなく作り声にしてねと言ったけど、これがけっこう難しく、できた子は半数くらいだろうか。意外な結果だった。恥ずかしいからだろうか?そうかもしれない。自分が小6の頃のことを思い出すと、やっぱり恥ずかしがりだったから、作り声をやれと言われても確かに難しかったかもしれない。でもなにかのきっかけさえあればできそうな気もする。もっと軽い気持ちになってほしいのだ。これは今後の課題。「人形にあわせて声を変える」を強調したらやりやすいだろうか。

人形:
劇場スタッフが人数分集めてくださったおかげで予算をかけずにできて助かった。
手を入れて操作できるタイプの人形はやっぱり使いやすく、とくにカメなんか表現も面白かったけど、全部手を入れるタイプになってしまってもアバウトさがなくなって面白くないので、大小ごちゃまぜでよかったと思う。

小道具:
出発直前になって、こどもたちが小道具を使いたいと言い出したらどうしよう、と急に思いたって、学芸スタッフに紙とクレヨンなどを急遽用意してもらったのだが、学芸スタッフのNさんの「こどもたちがそっちに集中してしまうとやることがずれてしまうので、ない方がいい」というお言葉どうり、なくてなにも問題はなかったし、ない方がよかった。そのおかげでこどもたちは想像力で「見立て」をしながらより演劇的に表現を作っていった。

人数とグループ数:
5、6人グループ×5グループ。1グループの人数はこれが限界。グループは使える時間に対してちょっと多かったので、ほとんど関わってあげられないグループができてしまったのが申し訳なかった。今回のような時間と人数の場合、1グループの人数を増やしてグループ数を減らすことは難しいので、これはどう解消したらいいだろうか。単純に時間を増やせれば解消はできるだろうが、その他の方法はないだろうか。今後の課題。

日数:
1回目、学校との事前打ち合わせとこどもたちの授業見学(英語1コマ)ー7月
2回目、こどもたちとの事前対面質疑応答(1コマ)ー9月
3回目、ワークショップ一日目(4コマ)
4回目、ワークショップ二日目(4コマ)
以上のように、今回はトータルで4回(4日間)、9コマを使わせてもらった。
今回のプログラムはやはりワークショップだけで最低でも二日は必要だった。
しかしこの内容ができたのは、事前にこどもたちと会ったり、アンケートに答えてもらったり、学習発表会のビデオ映像を送ってもらって家で見たりして、ワークショップの前に、こどもたち26人の一人一人を知る努力をかなりして、一人一人をどこでどう生かせるかを考えていたからだ。
おかげで今回はひさしぶりにこどもたち一人一人の顔が見えるワークショップができたし、それはちゃんとみんなに伝わっていたと思う。自分のことも見ててくれてると思うとこどもたちはけっこうそれに応えてくれるし、それで内容の質はぐっとあがる。今回は事前調査まで含めてそれがぎりぎりできる最低限の日数だったと思う。
しかしせっかく作りかけたこどもたちの人形劇を、保護者や下級生たちに見せられるくらいにするには、最低でもあと2日くらいはいるだろうと思う。

スケジュール:
タイムスケジュールと最低限の進行表はあらかじめ作っておいたので、それに従ってだいたい滞りなく進行できた。
今回は1日目を練習、2日目を本番みたいに使った。
1日目にやりたいことをやってもらって、こどもたちのやる気やアイデアを引き出したり、一人一人を把握する時間として使い、2日目は1日目に出てきたものを生かしつつこちらからのコメントをふまえて作り直してもらったが、自分自身はこれはいつものパターンなのでやりやすかった。まずそれぞれ素材をよく見た上でどこをどう生かしたらいいか考え、それをふまえて一緒に作るという方法で、これは作品製作の時もワークショップの時も変わらない。これが一番やりやすい。なので、これができない一日だけのこどものワークショップはけっこうきつい。対象が高校生以上大人の場合は話が通じるので一日だけというのもアリなのだが、小中学生、とくに小学生は厳しい。
時間はよく押してしまうのでいつも注意が必要。今回は講評の時間が足りなかったのに、アシスタントのお二人にもコメントしてもらってしまったが、まず自分一人で言って、補足があったら足してもらうようにしたら時間がオーバーせずにすんだだろう。

場所:
視聴覚室。普通の教室ほどの大きさ。体を動かしたりということではなかったので、十分だった。
教室のように個人のモノが置いていなかったので、作業はしやすかったかもしれない。

それぞれのテーマと目的:

1工場の街にすむ子の物語
「自分の足下からの出発。自分の街を架空の街に置き換えることで客観的に見てみる。」を目的にしていた。一日目に彼らが作ったのは、ファンタジー要素の強い単純なストーリーで、自分たちの街との共通点は「空気が汚い」こと以外なかった。二日目にはもっと自分たちの街に近い話として、具体的に考えてもらったらよくなったが、時間が足りず目的を共有してもらうところまでは行けなかった。しっかり最後まで作れたら、他のグループの物語とつなげて、自分の住む町を違う角度から見てみるという体験ができるのではないだろうか。今回このグループの子たちが体験したことは、街のことを考えたというよりも、「一日目にできなかったことが、二日目にうまくできた」ということの方が大きかったかもしれない。それでも嫌だと思っていた工場の街を、一面的ではなく、いいところ悪いところ両方考えた、ということは記憶に残ってくれるかもしれない。

2怖いものがない子の物語
「<怖いものがない>とはどういうことなのか、本当に<ない>のか考えてみる。」が目的だったが、これは一日目の終わりに「こわいものはあるよ〜」というこどもたちの告白で、なんだやっぱりあるんじゃんうそつきー、ということであっさりと裏切られたテーマ。なら「こわいものはない、と言いたがる子の物語」に変更すればよかったと今思いつくが、じゃその目的はなに?と考えると今回はそうしてみてもそれほど有意義なテーマにはならなかっただろう。こどもたちは簡単にウソもつくし、考えはころころ変わる、ということを念頭において今後に備えましょう。
でもここのチームはみんなで協力して表現を作る、ということをとても楽しんでいたし、よくできていたと思う。
しかし本当に怖いものについて考える、というのは難しいことだとつくづく思った。

3いじめにあったらどうしようと思っている子の物語
「未知の世界の扉の前に立つ時に生じる不安や怖れと向き合ってみる。」
この目的は最低限は達成できたと思う。もっと掘り下げて考えてもよかった。実際のいじめがないこのクラスだからできることだった。

4冒険旅行をした子の物語
「大きなスケールのファンタジーを通して、未知の世界の困難や楽しさを表現してみる。」という目的の遂行は、こちらの意図していたこととしては難しかったと思う。やっぱりもう少し自分たちに近づけて考えてほしかったし、このグループの発表をみて、ほかのこどもたちが困難があっても冒険楽しそうだなと思ってくれるような作品を生みたかった。でも時間の関係でこのグループにはわたし自身はほとんど関われなかったので残念。

5一人暮らしをした子の物語
「現実にいつかおとずれる「ひとり立ち」を、「一人暮らし」のテーマを通して想像してみる。」
これもある程度うまくいったケース。いじめのテーマ同様に自分事になりやすかったし、表現も具体的で面白かった。

総合的にみてみると、こどもたちにとっては自分たちの関心事や普段の生活から離れたテーマほど、自分事にしたり、具体的にするのが難しかったことがわかる。うまくいった「いじめ」と「一人暮らし」のテーマはこどもたちの中で強い感情をかきたてるテーマだし、いじめは経験もあるだろうから、「自分事・具体的」になりやすかったのだろう。それにこの二つはほとんど負の方向だからよけいだ。ここで自分の中にある漠然とした不安や怖れと向き合い、問題を客観的にみてみたり、角度をかえて考えてみることで、必要以上におびえることはないということに気づいたり、問題に対処していこうとする積極性が生まれたり、という変化が起きる。
たとえば今回、すべてのグループが「いじめ」のテーマで作品を作ったらどうだっただろうか。それもありだったと思うが、このこどもたちの場合、それは現在ではなく過去か未来の出来事になるからそのまま扱えば地域のテーマからは遠ざかるもはずれないか、と思う。

こどもたちへの接し方:
ひさしぶりに勘がもどった。妊娠出産でホルモンバランスが崩れたせいか、「自分」がどんな人間であるかという自己イメージまで壊れる体験をして以来、ワークショップでこどもたちにどんなふうに接していたか忘れてしまっていた。なんだかどう接したらよいやら困っていたが、今回ワークショップの少し前に勘がもどってきて、これだ、と思い出したことがあった。なぜかわからないが、少し前に授乳をやめたので、またホルモンバランスが崩れて妊娠前に体が戻ったからだろうか?
こどもたちの一人一人の存在を肯定するように、ほんとにストレートに接していただけだったのだけれどこれがなかなか思い出せなかった。こどもは大人よりももっともっとストレートにいく必要があるのだった。
これを忘れてこどもたちに接して、叱ろうものなら一瞬にして関係も雰囲気も崩れてしまう。
アシスタントのノムさんにも、こどもたちをできるだけ叱らないようにお願いしていたが、今回は「厳しいプロから指導を受けるということだから厳しく、叱ってもらってもOK」という校長先生の許可がおりた。叱ることについては今回のように事前に先生方との役割分担と合意をとっておくとスムーズだと思った。


■終了後のアンケート(記名)とインタビューの結果

見えてきたのはけっこう意外な効果だった。

楽しかったかどうか、また参加したいかどうかという質問には、ありがたいことに全員が「楽しかった」「また参加したい」に○をつけてくれた。これは終わったあとのこどもたちの表情が充実していたことから、ウソではないだろうと思う。

参加してどう感じたかという質問(複数回答)に、「みんなで一緒に何かを作ったり、協力することが楽しかった」という答えが17、「阿部初美さんと一緒に劇を作ったり、活動したりして楽しかった」が10(一緒にできた子がかぎられてしまい申し訳ないです)、「自分の気持ちを動きや言葉で伝えることができた」が7、「今までは知らなかった友だちのよいところを発見できた」が5、という結果だった。
みんなでの作業が楽しかった、という答えが圧倒的に多かったし、youtubeにアップされたインタビューでも三人のこどもたちが同じことを言っていて、これは前のブログにも書いたように、ふだんはこういうふうに、対面で話しながらアイデアを出しながらみんなで共同作業をする、ということが普段あまりないかららしい。インタビューされたFくんがそう話していた。この年頃の多くの男の子たちのように、同じ空間にいてもゲーム機を一人一つ手にしてほとんど会話もなく、という遊びが主流であれば、本当にこんな共同作業をする機会はめったにないだろう。
そういえば担任のN先生も、「このこたちはマイペースで、共同作業は苦手です」とおっしゃっていた。
演劇の「共同作業」はコミュニケーション能力を培うのにもとても適したツールかもしれない。
わたし自身も演出なんて仕事を選んでおきながら、人前で話すのがとても苦手なタイプだった。どういう内容を、誰に、どう伝えたらわかってもらえるか、ということは、演出の仕事を続けるうちに本当によく学ばせられた。おかげで今では3時間であっても4時間であってもまだまだ足りない、というくらいお話するようになってしまったのだが。。。
質問事項に、「考えること」や「発見」に関する質問も入っていたらよかったねと、あとでアンケートを作成した学芸Mさんと話しあった。

次の質問はヒットだった。「この授業を何度か受けるとどんな風に自分が変わると思うか?」という質問(複数回答)だ。もっとも多く、とても驚いたのは、「自分のすることや言うことに自信が持てるようになる」という答えで、これが16人。「今までより自分の気持ちを友だちや家族にわかりやすく伝えられるようになる」が、ついで13、「自分や友だちのいいところや知らなかったところを発見できるようになる」が7、「授業中に発表するのがはずかしくなくなる」も同じく7、という結果だった。
一番トップにきたのは、こちらがあまり意識して目的に組み込んでいないことだったので驚いた。
しかしこれは実はわたし自身が現場でモットーとしていることで、それはそこにいる誰もが気兼ねなく話せるような雰囲気を作ることなのだが、そのためにどの人どの子の言うことも尊重して聞くことを心がけている。だからわたしの現場ではたしかにみんな言いたいことを言うようになる。これが伝わったんだろうかと思う。しかし意図ではなかったとしても、そうなってくれたらそれは本当に嬉しい。今後はここにも「考えることが楽しくなる」とかの答えも入れておいてほしい。
この質問のヒットたるゆえんは、演劇ワークショップを普及させるにあたって、体験したこどもたちの言葉で、その予想効果を語ってもらっていることにある。こどもたち自身がそういうならと、こどものためを思う大人を考えさせてくれるだろう。今までなぜこういう質問がなかったのだろうかと不思議に思う。

放課後のフィードバックでは口数の少なかったN先生も、終了後のインタビューでは「もっとやってもよかった」と、もう少し長期のワークショップを希望してくださっていたという話を聞いた。今回のワークショップについて、よくご理解くださり、こどもたちのためになると判断してくださったんだなと思う。

■学芸スタッフとの作業

今回はとても合理的、スムーズに仕事ができた。自分一人では迷うことも、学芸のNさんMさんから助言をいただき、うまく進められたことも多々あってありがたかった。なにしろやりやすかったのは、みんな私的な感情に惑わされることなく、どうしたら目的をうまく遂行できるか、それだけを考えて動いていたことだ。
これは本当は当たり前のことだけれど、もっと力関係とか、私的な欲とか、いろんなものに惑わされて目がくもり、言いたい事が言えなくなったり、言いたい事と違うことを言ってしまったり、本来の目的に向かって合理的に動けなくなってしまうこともたくさんあるのだ。
なのでこういうふうにストレートに仕事ができることは珍しく、本当に気持ちがよかった。
Mさんは人の都合も考えずじゃんじゃん連絡してきてくれて、目的のためならどんなにだって動く、という気合いが伝わってくる。それで抜けもカバーできるし、催促されることでなんとか時間をとってこちらも進めようと努力できたので本当に助かった。連絡を遠慮されるのはとてもさみしい。
Nさんの肝の大きさには驚かされることもあった。今回は初めてのプログラムということもあり、自分自身、かなり用意をしてきたが、それに理解をしめしてくださると、ワークショップ前日の打ち合わせでは、「ここまでやったんだから、結果の分析さえしっかりできれば、あとは失敗してもなにしてもいいですよ」と、ぽん、と言えてしまうような度量の深さである。この言葉にはどれほど救われたかわからない。今は「失敗はゆるされない」ような風潮や雰囲気が広がっているが、人は失敗から学ぶのである。そのことを忘れていない、希有な人なのだ。さらにワークショップ終了後の食事の最中だったか、こちらがやれることを最大限やって、それでも結果がでないと学校側が言うとしたら「それがおたくのお子さんたちの実力ですよ、ってことですよ」と、ぽんと言い切るような厳しさ。Nさんは、地元で一つの学校で7年間、アウトチーチ事業を継続し、ひとつの文化活動を作った人で、その厳しくあたたかく筋の通った言葉は、こういう経験からでてくるのかもしれない。
今回のプログラムは、Mさんからの「新しい内要、地域に関すること」というオーダーとNさんの「信じてますから」という信頼を受けて開発したものだったが、今までで一番自分らしいワークショップができたのではないかと思う。これは感謝である。「新しい内要」は時に失敗のリスクをともなうが、それでもこういうチャレンジングなオーダーをしてくれる人がいると、それがいろんな変化を起こすきっかけになるので、本来必要なものなのだし、Mさんのような若手が失敗を恐れずにチャレンジして成功したり失敗して学んだりして活躍することで、劇場もどんどんいい変化を起こすことができるだろう。それにNさんのようなベテランとの共同作業やサポートがあるのはすばらしい。

今回に関してはだいたいこんなところだろうか。

残った今後の課題については引き続き考えていきたいと思う。
北九州三日目の劇場での「勉強会」についても、来年都内の劇場で行う「子育てを考える」ワークショップにつながっていくので、時間を見つけてしっかり振り返っておきたい。






ワークショップ(小学生) in 北九州2続

■6時間目

5時間目の発表に対する感想と意見交換、講評の時間であるが、発表がおしてしまったため、あまり時間がない。感想意見交換は少しすっとばし気味で講評をメインにする。

1工場グループはとにかくちゃんと発表ができたことがよかった。いいところ悪いところ両方入って具体的になったし、演技も緊張感があってとてもよかった。この緊張感はとても大切で、それは相手を尊重する気持ちにつながってるんだよと伝える。

2怖いものなしグループはたしかに表現も工夫しててうまいし、本当に怖いもの「津波」がひとつ入ったけど、どうだった?とみんなに問う。まっとうに答えてくれそうなSくんを指名するとSくんは「あんなお母さんでも死んじゃったら悲しい」と答えた。予想的中、「わたしの言いたい事は今Sくんが言ってくれたよ」。本当に怖いものを入れたけど、このグループはそれまで笑いの表現にしちゃったよね。一瞬でもいいから、本当に怖いことを笑いにしないでしっかり感じてみる時間がほしかったな。と言うと、こどもたちはしんとなって、ちゃんとこの言葉は届いたようだった。しかしそれを想像するのはとても怖いことでもあるし、本当に想像できるかどうかわからないことでもある。この課題やこの講評は、彼らだからできたことで、もっと怖がりな子たちのいる学校、クラスでは難しい。

3いじめグループは、話し合いはとてもよかったけど、物語を作って表現を考えて練習する時間がぜんぜん足りなかった。でも話し合いはとてもよかった。初めはやっぱり「いじめ」というテーマで、不安そうな顔をしていたこどもたちは、いじめる側はなぜいじめるのか、と考えを進めるうちにみんなだんだんおびえが消えてとても冷静な表情になっていったのがとても印象的だった。こういう変化を見るのはとても嬉しい。しかし彼らは二日間というあまりに短い時間を目の前の作業に夢中で過ごしているので、自分自身でこの変化に気づくことができない。このワークショップが終わってしばしのち、いつか気づくことがあるのかもしれないが、本人たちにも先生たちにも気づいてもらえないのはあまりにもったいないと思い、このことを講評で指摘しておいた。自分でちょっと強引だなと思った。本当は言いたくなかった。長期ワークショップだと、わざわざこんなことをわたしが言わなくても、先生たちにもこどもたちの変化は手にとるようにわかるし、こどもたちも自分自身の変化を暗黙のうちに受け入れており合いをつけていく。そうすると演劇ワークショップの意義は〜、なんて説明しなくてもすむようになるのだ。
しかしこの「いじめ」のテーマができたのも、このクラスこのこどもたちの間に本物のいじめがなかったからだ。本物のいじめが存在するようなクラスでは、ダイレクトにいじめをテーマにすることは難しいケースがほとんどだろう。その場合はもっと遠まわりでそっと近づいていかなければならない。

4冒険旅行グループは、表現は工夫が見られて面白かったけど、なんでこういうお話にしたのかわからなかったことを伝えた。ここはけっこうお勉強できる子が多いチームなので、それでわかってくれたみたいだったけど、もう少し手伝ってあげたかった。

5一人暮らしグループは、上演時間は長かったけど、表現も具体的になったし、それぞれの子たちの人生が見えて本当に面白かったこと、いじめグループの子たち同様、「一人暮らし」のテーマにとても不安そうな顔をして作業を始めたMさんも、だんだん楽しんできるようになって、発表でもとてもユニークな表現ができてよかったことを伝えた。みんなも満足そうな顔をしていた。

終了時間がずいぶんオーバーしてしまって、長時間の集中を強いられていたこどもたちはやっぱり少しお疲れのようだったけど、本当にみんな最後までよくがんばってくれたと思う。うまく表現できた子たちも、時間が足りなかった子たちもみんなそれなりに満足そうな顔をしていた。その証拠に、劇場からの事後アンケートでは全員が「楽しかった」に○、「また参加してみたい」に○をつけてくれていた。
とりあえず今回はそれぞれなにかを体験してもらえたかな、と思う。

劇場スタッフがクラスから3人のこどもたちにインタビューをしていた。その様子はYoutubeにアップされているが、限定公開のようなので、公表できないのが残念だが、みんなくちぐちに、「みんなで考えながら表現を作っていくのが楽しかった」と言っている。なるほどと思う。遊ぶ時も同じ空間にいても一人一個ゲームを持ってバラバラに遊ぶことが多い中、たしかにこんなふうに対面で話し合いながら、ぶつかったり協調したり折り合いをつけたりしながら、生のコミュニケーションで共同作業をする時間は少ないのかもしれない。

■放課後、フィードバック

今日は校長先生がお留守なので、教頭先生が一日ところどころ抜けながらもおつきあいくださったので、まず教頭先生からお話をうかがう。この教頭先生も何度かお会いしているが、とても笑顔のさわやかな裏表のないような明るい先生で、こんな先生方のいるこの学校はうらやましいなと思う。
夏の事前調査の一コマでは、わたしの質問にがちゃがちゃ騒がしかったこどもたちをどなりつけて喝を入れてくださった教頭先生もこの日はまったく怒鳴ることなく穏やかにこどもたちを見守っていた。
「こどもたちはちゃんと作業の中に入ってやってたと思います」と、教頭先生もこどもたちのがんばりを認めた。そしてつづけた。
学校では発表会と言えばプロセスよりも結果重視にならざるを得ないところがあり、M(一人暮らしグループで活躍した女の子)なんかは、普通だったら「声が小さい(からしっかり出せ)!」ということになるんだけど、今日はとても彼女らしい表現ができていたと思う。最近は「ものを考える」ことがカッコ悪い、という風潮があって、照れ隠しでふざけたり笑いに走ったりしてしまう。当たり前のことを当たり前に言うのが難しくなっている。
という貴重な先生の思いを聞かせてくださった。こんなふうに日頃本当に感じている難しさを話してくれる先生も少ない。

先生方との話では、自分とこの学校はこんな取り組みもあんな取り組みもやっています、という学校自慢になってしまうこともよくあるのだ。演劇ワークショップの意義を説明しても、それならうちだってこういうことをやってます、となってしまい、これは「本来うちでは演劇ワークショップなど必要ないのにやってあげてるんですよ」と言われているのと同じだし、それで一日限りのワークショップだったりするとなんのためにやったの?的な感じで、やっぱりこれは必要なし、となり、本来の演劇の力は発揮されず、それで助かったかもしれないこどもも助からなくなる。
今回のようないい学校、いい先生ほど、本音で話をしてくれるし、目的を許容、共有してくれるのだ。

遅れてN先生がやってくる。N先生は口数が少ないながらも、劇場スタッフのどうでした?という問いかけに、「K(いじめグループの女の子)なんかは本当に自分の思いを表現にできたんじゃないかな」とぽそっと言った。
そのうち校長先生がお戻りになり、こちらにすぐに来てくださった。この女性の校長はなかなかの人物で、学校をよくするためならなんだってやる、とても行動力のある方で、今回の二日間ではあるがこの贅沢な企画を受け入れてくださったのであるが、校長先生にはわたしのワークショップについて、どれだけご理解いただけたのだろうかと心に残る。本当に自分の文脈で理解した、という時先生方は、目を輝かせながら「演劇ワークショップって、こういうことなんですね?」と、自分の言葉で確認されに来ることが多いのだが、校長先生は最後までなにかを探っているようだった。なにかもっと、校長先生にヒットするような要素や言葉が見つかればよかったのに、と思う。
それにしてもいい学校だった。先生方とも別れがたいような気持ちになった。あの子たちの今後の成長の様子もまた知りたいと思った。

そしてこの夜は、山口YCAMでの高校演劇ワークショップで育ってくれた元高校生たちと顧問の先生が、山口からわざわざ関門海峡を越えてわたしにその成長した姿を見せに来てくれたのだった。こういう再会は本当に嬉しい。

今回のワークショップの結果は、またこのブログで分析していきたい。








ワークショップ(小学生) in 北九州1

北九州でのワークショップと勉強会の3日間が終わった。
出発前日、4年ぶりに持病の発作にみまわれるというハプニングがあり、油断して薬を持っていなかったので仕方なく大事にしながらそのまま北九州へ出発、体調不良のままワークショップに突入という事態になってしまったものの、今年後半はこの仕事にかけて準備してきたので、とりあえず無事に終わってほっとしている。
おかげで移動日の夜、お誘いを受けていた泊さんたち「飛ぶ劇場」の門司倉庫での上演が見られなくなってしまったのは残念だったけど。
その泊さんは、自分の公演の本番中にもかかわらずわたしのワークショップを見学に来てくれた。それから地域創造の松本でのリージョナルシアター事業でご一緒したF'sカンパニーの福田さんと松本さんほか、たくさんの人が小学校に来てくれて、ギャラリーいっぱいでワークショップ始まった。

スタッフが先にこどもたちのところで、ガムテープに名前を書いてもらっていたけど、自分の呼ばれたい名前とか、普段呼ばれてる名前でいいよってことにしたら、みんなへんてこな名前ばっかりで、名前と顔が一致しずらくなってしまったので、二日目からは、ひらがなフルネームにしたらわかりやすくなった。これは反省点。それに地域によっては名前のみならず名字もすごく読みにくいことがある。

あいかわらずこどもたちは元気いっぱいだったけど、9月に会った時とはやっぱり少し印象が変わって、成長していた。6年生のこどもたちはこの時期とても変化しやすい。

■前日と当日の朝

スタッフとミーティングで、今回の目的とプロセスを打ち合わせしていた。
目的は二つ。一つは、こどもたちがどれだけ夢中で時を過ごしてくれるか。もう一つは、ふと自分の中に沈黙が生まれたりするような、気づきの時間をどれだけ作れるか、ということだった。
わたしたちはその目的を共有し、そういう時間を作るべくこどもたちと二日間を過ごす。
ここのこどもたちはわーっとテンションがあがって大騒ぎになりやすいので特に注意が必要だった。 
でも今回は多少大騒ぎがおこってもいいような時間を最初にとってある。
今回アシスタントをしてくれるのは、こちらから一緒に来てくれた俳優のノムさん、それと北九州地元の俳優の古賀さんという女性だが、二人の紹介もすっかり忘れてワークショップに入ってしまった。

■3、4時間目

まずは、人形劇のルールとスケジュールの説明。
26人で5つのグループに分かれてそれぞれのテーマで人形劇を作る。1グループ5〜6人、これが限度だろう。人形は劇場スタッフが約30個集めてくださった。とくに学芸Nさんのおうちからはたくさんの人形たちが参加してくれていた。
テーマと目的はそれぞれ、

1工場の街に住む子の物語
(自分の足下からの出発。自分の街を架空の街に置き換えることで客観的に見てみる。)
2怖いものがない子の物語
(「怖いものがない」とはどういうことなのか、本当に「ない」のか考えてみる。)
3いじめにあったらどうしようと思っている子の物語
(未知の世界の扉の前に立つ時に生じる不安や怖れと向き合ってみる。)
4冒険旅行をした子の物語
(大きなスケールのファンタジーを通して、未知の世界の困難や楽しさを表現してみる。)
5一人暮らしをした子の物語
(現実にいつかおとずれる「ひとり立ち」を、「一人暮らし」のテーマを通して想像してみる。)

事前調査とアンケートの結果からこの5つのテーマを考え、それぞれその答えを書いた子をひとりかふたりそのグループの代表としてわたしが選び、学芸Nさんの提案でグループ分けを先生にお願いすることになり、他のメンバーは担任のN先生が決めた。
どのグループもまとまらないと困るので、ひっぱる子を一人入れてくださるよう、先生にお願いしていた。
N先生は、中年?の男の先生で、口数は少ないけど腹のすわったすてきな先生で、嫌な威圧感もないのに、ふざけがちなこどもたちもこの先生の言うことならなんでもきく。そして独学で演劇の勉強をされていたこともあり、今回のワークショップには、本当に協力的に動いてくださっていた。

グループのメンバー発表があると、案の定みんなわーっ!となった。予想はついたのでその前にすべて説明はすませてすぐに作業に入れるようにしておいた。

一日目は3,4時間目で物語を作り、人形を使って練習、5時間目に発表、6時間目に感想や意見の交換と講評というスケジュールにした。
人形を先に選んでお話を作ってもいいし、逆でもいい、と言ったら、全員が人形を先にとりに行った。
それから声は地声はNG、人形に合った作り声を出すこと。これで自分自身と距離を作ることで、演じやすくさせようとしている。

一日目の劇の創作は、できるかぎりこどもたちのやりたいようにやらせること。
わたしたちはこどもたちからアイデアを引き出したりしながらその手助けをする。
ノムさんと古賀さんは俳優なので、各グループを回りながらとくに表現方法の引き出し役を積極的にやってくれていた。
わたしはその間、事前アンケート結果とこどもたちの顔と名前と特徴とをひとりひとり一致させ、N先生にこっそりと話を聞きながら、それぞれのグループの誰にどんな活躍をしてもらえるだろうかと作戦を練っていた。
だいたい午前中の2コマでどのグループもある程度はできたようだった。

■給食と掃除と昼休み

わたしたちはあえてこどもたちと給食はともにせず、会議室で給食を食べながら、午前中の様子を報告、確認しあったりしながら、午後に備えて作戦会議をしていた。スタッフたちの感想は、どのグループもある程度はいけそうだという感じだったけど、2の「怖いものがない子の物語」チームだけが、マイペースでおさなくふざけがちな男の子が集まってしまい、なんだか話がまとまらず、みんな勝手に人形で遊んだりしていて、ちょっと心配だった。なんでこの子たちが怖いものは「ない」と書くかがよくわかるようだった。このグループには、「とにかくひとりひとり勝手なことしがちだから、みんなで力をあわせて発表できればいいよ」と、言っておいた。
ところがこのグループが思わぬ大逆転を見せたのだった。

■5時間目

午後からの発表は1「工場の街に住む子の物語」から順番に行う。
最初の発表でわたしは青くなってしまった。この一番目のグループは、結局話がまとまらず、発表ができなくなってしまったのだ。他のグループもこうだったらどうしよう、そもそもこのプログラムは難しすぎたんだろうか、青くなりながらあれこれ心配事が頭をぐるぐる回る。回りつつもこのグループがどうしたかったのかだけを聞いてまとめて、とにかくグループにまとめ役がいないことが問題、と先生がTくんをまとめ役に指名して、その場はおさまった。Tくんはおじいちゃんが自動車整備工場をやっていて、そんなおじいちゃんに憧れているが、お母さんから医者になってほしいと言われている。怖いものはという質問に「死」と書くような繊細な子である。1のグループの考えたお話は、3人のこどものいる家族の話で、このこどもたちは工場で働いていて、一人が工場で火事を出したことで機械が壊れ、きたない空気をだすようになってしまい、街の空気が汚れ、その機械を修理して、空気がどんどんきれいになったというものだった。工場があっても空気がきれいであってほしいという彼らの願いがこめられた話ではあるが、具体的な生活の感覚がまったく描かれていなかった。「自分の街の嫌いなところは?」という質問に、「工場があるせいか風がふくと家の中が真っ黒になる」と書いてくれたAちゃんの詩的ですぐれた描写力を、このグループにはいかしてほしかった。

青くなりながら続いて2「怖いものがない子の物語」。このまとまらないグループが、表現としては一番面白くわかりやすくまとめて大逆転を見せてくれたおかげで、再びなんとかなるかも、と希望をいだいた。お話は、あるところに怖いものがない子がいて、遊園地に遊びにいって、ジェットコースターに乗っても、お化け屋敷にいっても、スカイツリーに上ってバンジージャンプをしてもちっとも怖くない、ところが門限すぎて家に帰ってお母さんに叱られて、いくら怖いものなしでもお母さんだけはやっぱり怖い、というかわいらしいオチ。怖いもの知らずの子の友だちのカメはのそのそ動いたり、ゆっくりしゃべったり、お母さん人形は鬼みたいな人形を使って不良みたいな言葉遣いで演じたり、他の人形をジェットコースターに見立てたり、あちこちにたくさんの創意工夫が見られ、ほんとうに楽しくうまくまとまっていたのにみんな驚いた。

3番目は「いじめにあったらどうしようと思っている子の物語」。ここは夢を使うという設定が上手にできていた。パンダちゃんがお友達たちに上靴を隠されたり、仲間はずれにされたり、いじめられるのだが、それは夢だった、という設定。翌朝みんなにその夢の話をして、みんなでいじめはよくないよね、と話し合うという、道徳のPRビデオのような作品になっていた。

4番目の「冒険旅行をした子の物語」は、けっこうお勉強のできる子たちが集まったせいか、まずそれぞれの人形のキャラクターを書き出すところから作業を始め、筋道をきちんとたてて創作をしていた。できた作品も「アルカリ星」に冒険にいったり、リトマス試験紙的なもので実験したり、理科の研究のような内容になっていた。確かに研究も立派な冒険である。

そして5番目の「一人暮らしをした子の物語」は、おともだちどうしがみんなで生活していたら、いじっぱりなブタくんがひとりでへそを曲げて、みんなは出ていってしまい、やっぱり一人はさみしいよう、ということでみんながもどってきてまた一緒に仲良く暮らしましたとさ、というお話。

1をのぞいてはどこのグループもある程度形にしてくれたのでとりあえずほっとする。

■6時間目

続けて感想、意見交換と講評の6時間目。
どこのチームのどういう表現の工夫が面白かった、という具体的で小さな表現に関する感想が続く。
「見立て」に関する感想もあって、こういう演劇の根本的な表現に言及してくるとは、小学生もなかなか鋭くあなどれない。

さてでは講師からの講評ということで、1以外、どのグループもよくがんばったし、面白い表現がたくさんあった、という前提の上、これからわたしが言うことをふまえて、明日はさらに今日作った物語の改良作業と二回目の発表をすると発表。それぞれのテーマに隠された目的、課題も講評とともに明かす。
1「工場の街」グループはとにかくしっかり作品を完成させること、Tくんの活躍に期待。工場の街のいいところ、わるいところをそれぞれしっかり表現に入れること。
2「怖いものなし」グループは本当に怖いもの、たとえば、311の震災では、家族や友だちをなくしてしまった人もいるし、アンケートに地震や津波や火事が怖いと書いた子たちや、自分や家族や友だちの死が怖いと書いてくれた子たちもいる、このグループには「怖いものはない」と書いた子たちが多いけど、本当にそうなのか、立ち止まって考えてみよう、と言ったところで、グループの男の子たちがくちぐちに「怖いものあるよー」と言いだした。なんだやっぱりあるんじゃん、じゃあ本当に怖いものも入れて、作り直そうよ、ということでまとまる。
3「いじめ」グループは、最後がいじめをなくそうみたいなスローガンになっちゃって、みんながいじめをなくしたい気持ちはわかるけど、その前になんでいじめが起きるのか考えてみよう、と問いかける。なんでいじめるの?「泣かせたい」なんで?「弱いとこが見たい」なんで?シーン・・・人をいじめたい気持ちはもしかしたら自分の中にもあるかもしれないよ、なんでいじめるの?「ストレスの発散」どうしてストレスがあるの?「家でDVにあってる」なるほど!じゃあ大人はなんでこどもにあたるの?誰かが「お金」とぽつりと言った。じゃあそれを手がかりに明日はなぜいじめが起きるのか考えながらもう一度作り直そう、ということにする。
4「冒険旅行」グループは、たとえばKくん(残念ながらこの日はお休みだったけど)が宇宙のように誰もいない空間に行ってみたいと書いてくれたけど、本当にそこに行ったらどんな気持ちになるだろう、そこまで行くのは簡単だろうか?ということを考えながら、もう一度作り直すこと。
5「ひとり暮らし」グループは、もっと現実的に、たとえば自分が一人暮らしをするとしたらまずどうする?「家具を買う」「家を買う」「家賃を払う」「料理する」「買い物する」「ネットする」いろいろな答えがあがる。そういうふうに、具体的になにするか、どういう時にさみしいと思うか、考えてきて、とする。

震災や死やいじめの話をした時、こどもたちは一瞬シンとなった。
小学生にこんな話をするのは初めてだった。
小学生に、よく知らないわたしのような者がこんな話をしてもいいんだろうか、と話しながら疑問も生まれたが、こどもたちの目は真剣で、深くわたしの言葉を受け止めてくれているのがわかった。
この子たちなら大丈夫、と思った。

この5つのショートストーリーは、実はつながっていることも明かす。これらのテーマは「過去・現在・ここという内の世界」から「未来・未知(外)の世界」へ、というふうになっていて、もしこれがちゃんとできたら、5の次にもう一度1をつなげて、外の世界を体験してきた後、もう一度今ここに戻った時、自分のいる場所がどんなふうに見えるだろうか、というふうにしたかったんだけど、それはもっと長期的な作業が必要になる。今回はとにかくお話や表現の「でき」は二の次、こどもたちがいかに立ち止まって自分の内なる声や不安や怖れと対話できるか、いかに自己や他者や世界についてなにか発見や再確認ができるか、ということを主軸にしているので、長期でできる機会があれば、表現まで完成させて保護者や下級生に発表する、というところまでいけたらいいなと思う。

今回、創作と発表を二回おこなう理由は、このクラスのようにやりたがりの子たちが多い場合(やりたがりの俳優と同じように)、まずは好きなようにやって発散してもらって、次にこちらの話を聞いてもらいやすい状態にするためと、それから一度目に好きにやってもらうことでこどもたちの考えや様子がわかり、二度目にそれをベースにしてできるだけこどもたちのアイデアのいいところを生かしながら一緒に作り直しができるからだ。

でとりあえずみんなそれぞれ課題を家でも考えてくる、ということで一日目のワークショップは終了した。

放課後、スタッフと先生たちとのフィードバック。こういう時間がしっかりとってもらえるのは嬉しい。いじめや死の話を思わずしたことは自分でもけっこうショッキングなことで、こんなことを小学生に話したのは初めてだったことを先生方に伝えた。
でも最近ワークショップでは先生の注文を聞いて道徳的になりすぎていると自分で感じていて、学校では道徳的なことをおしえなければならないのはよくわかるが、たとえば「いじめはよくないからやめよう」と言う前に、どうしていじめが起きるのかを立ち止まってくわしく考えてみよう、ってことをしたかったので、今回は本当にやりたかったことをやらせてもらっている、今日こどもたちが作ったのもとても道徳的な物語だった、と話すと、「道徳的なのはこどもたちなんですよ」と、校長先生がぽりつと言った。
N先生は、「自分の中にもいじめたい気持ちがあるから、いじめる演技ができるんだ」と、「自分の中にいじめたい気持ちはない?」とわたしが聞いた時答えなかったこどもたちのことを言った。
この答えは、やっぱりN先生が演劇を勉強していたからだろうか?他の先生方にどれくらいこんな話は通じるんだろう?
学校でワークショップをする時、先生方と意思疎通がうまくいくことは少なくて、どうしたらもっと理解してもらえて、演劇を教育にとりいれる活動を普及できるだろうかと思うのだ。





出産育児をテーマに/北九州

北九州芸術劇場で行う勉強会のテーマはたしか「出産育児を表現にいかす」だと思っていたけど、正確にはなんだったかな?と思い、確認のため、北九のHPの「アーティスト往来プログラム」を見てみたら、以下のような説明になっていた。

http://www.kitakyushu-performingartscenter.or.jp/entry/2011/0425artist.html
勉強会
【内容】阿部氏のこれまでの活動と、出産・子育て等をテーマに作品製作・ワークショップ実施の可能性を探ります。

ということは、わたしの活動についての話でいいのかな?

以前ブログにも書いたように、「出産・子育て」のテーマは、演劇の世界ではほぼ切り捨てられてきたゆえ、いずれこれをテーマに作品を作りたいと思っている。
ワークショップに関しては、数年前に、親子対象の演劇ワークショップはできないものか?という相談を受けていたのだが、こどもを持たないわたしには実際的、具体的に考えつかなかった。ところが、自分がこどもを産んでみたら、また都内の某劇場から「子育てを考える」をテーマに親子対象のワークショップの依頼があり、今度は自分もこどもを持っているので、自分の体験をもとに、ワークショップの内容を考えることができた。

それは今まで作ってきた「アトミック・サバイバー」などのドキュメンタリー作品の製作の方法を利用したもので、「子育て」のいろんな要素を、人形を使ったり、映像を使ったり、歌を使ったり、語りやリーディングを使ったりしながら、いろんな表現の方法で表現を試みて、最後に短いシーンをつなげて試験的に発表会をする、というアイデアだった。
これならなんだか楽しくできそうだ、と思った。
しかし対象は親子に限らず、子育てに関心のある人ならば年齢性別を問わず、誰でも参加可で、むしろその方がありがたく、たぶん詳しい内容はいつものごとく、参加メンバーによって決まる。わたしはいつもワークショップでは、集まったメンバーの特性を見て、なにをしたら面白くなるかを考えている。
なので、それがつかみきれない一日かぎりのワークショップが苦手なのだが。

以前こどもを持たない時には考えられなかったプログラムが考えられるようになったことには感謝である。
そして来年度に都内で行うこの「子育てを考える」ワークショップの内容は、きっと作品作りにつながる要素を持つものになると思う。

テーマは、「出産・育児」を通してわたしたちは何を見たり体験したりすることができるのだろう。
というあたりから出発してみようかな。
勉強会に来てくださる方にもそのへんを聞いてみよう。




「見る/見られる」、育児と演劇/北九州

「見る/見られる」は、演劇を成立させる基本的動作だが、最近、Kを見ていて、この「見る/見られる」について、少し思うところがでてきた。

Kはとにかく嫌々が激しいこどもで、とくに体を触られるのがあまり好きじゃないらしい。
あかちゃんの時から抱っこをしても機嫌がよくならなかったし、泣きやまなかった。おんぶも好きじゃなかった。一才半過ぎた頃やっと、ほんとうに時たま自分から「抱っこ」というようになって、めずらしいなと思った。
だから歯磨きをさせられたり、鼻水を吸われたり、薬を飲まされたりする時に、体を押さえられるのをものすごく嫌がる。でも押さえないと逃げてしまうので、押さえざるを得ない。どんなにほめられてもこればかりは嫌、という感じだ。
ところが最近、歯磨きのために率先して仰向けになり、口をあけるような事態が起こった。
わたしが人形を二つ手に持ち、「わーすごいねー、K、歯磨きするんだって、あ、おおきいおくちあけてるよ、えらいねー、パパに歯磨きしてもらうんだって、いいねー」とやったら、わたしがいくらほめても効果がなかったのに、この小さな見物たちに言われたことで、すっかり得意になって、積極的に歯磨きに協力し始めたのだ。
もっと嫌な「鼻吸い」でさえ、この手を使ったらみずから仰向けになった。その得意げな様子はホント、笑いをこらえるのが必死なくらいおかしかった。
それ以来、Kはこの人形たちをわたしのところに持ってきてはぜひとも人形劇をやってくれとせがむ。
この小さな見物人たちの視線を必要としているようだった。

話は飛ぶが、よく公園に動物なんかの形をした、こどもが乗るとバネでぴょんぴょん動く乗り物がある。一才をすぎた頃、Kが初めてこれに乗ったときのこと。最初、馬かなんかの形のに乗っていると、すぐに隣にある虫の形の方に乗りたがった。「あっち、あっち」というので、馬からおろして虫に乗せるとまたすぐに馬をさして「あっち、あっち」と言う。でまた馬に乗るとすぐに虫をさして「あっち、あっち」というのだ。それ以来、この手の乗り物ではいまだにこれを繰り返している。

Kは、はじめ視覚的に馬に興味を持って乗りたがったのだが、実際自分が乗ってしまうと馬は見えなくなってしまい、今度は全体が見える隣の虫の方に乗りたがったのだが、虫に乗ると今度は虫が見えなくなって、全体が見える馬にまた乗りたがり、これの繰り返しになってしまうということだ。
Kは馬に乗っている自分も馬も見えないので、自分が乗りたかった馬に乗っているという実感が得られなかったのだろう。
しかしたとえばこの時、あの小さな見物人たちがやってきて、「わあーすごいねー、Kがおうまさんにのってるよー、いいなー」なんてやったらどうだろうか。もしかしたらまた得意げな顔で馬を操作し始めるかもしれない。

この見物人たちは、Kにとって、自分のおかれている状況を客観的に見る装置としての役割を果たしている。
その装置によって、主観的には嫌な状況だと思っていたら、まわりの他者から客観的に見ると実はいい状況だったらしい、とか、大人っぽくふるまうことで賞賛されたいとか、客観的に自分を認識しなおして行動を変えるという作業を行っている。
これは大人でもよくあることだが、演劇的にはこれは「異化」と言われるものにあたる。
あたりまえにこうだと思っていたものが、ちょっとしたきっかけで違って見えてくることをさす。

人は、自分という存在やまわりの状況がわからない時、他者の視線を通して自分を客観的に見ることによって、自分のおかれている状況や自分という存在を認識する。
そしてそれは言語化するという行為なのだろうかと思ったが、そうでもない。たとえば自分を見る他者に笑顔が見られればそれでことは足りる話だ。

Kにこんなそぶりが見られたのは、もっと赤ちゃんの頃からだった。それは人形ではなかったが、「たかいたかい」をしてもらう時、たいていの場合、ちかくにいるわたしや他の大人の顔を見ていた。
見られていることを通して、「たかいたかいしてもらっている」自分の存在を確認していたのかもしれない。

話が前後していることに気づいた。
Kは赤ちゃんの時、たかいたかいをしてもらっている自分を見られることで、自分の存在やおかれた状況を確認し、喜んでいた。
一才半を過ぎて言葉の理解が進み、世界の認識が進み、自分が少しではじめてくると、見られることで、自分の存在やおかれた状況を客観的に認識しなおし、さらに自ら行動を変えるということをするようになってきた、ということだ。

「見られる」だけでなく、「見る」ことでもこどもは行動を変える。
よくこども番組で、実際のこどもが歯磨きをしたり、おトイレで用を足したり、ご飯を食べたり、服をきたり、靴下や靴を履いたりする短い映像が流れているが、あれは、そういう生活の基本的な習慣を嫌がる多くのこどもが、おともだちがやっているのを見て、だったら自分もやってもいいという気持ちになるのをねらうものだ。実際Kもあれを見て、歯磨きの第一関門を突破できた。もちろん映像より、生のおともだちの方がよくて、一時保育に通ううちに、年上のこどもたちの様子を見ながら、ずいぶんいろんなことができるようになっていった。
自分は嫌だと思っている歯磨きをおともだちは嫌がらずにやっていて、そして大人がその様子を賞賛している、となればなおさら、自分だってやってやるーという気持ちになるらしい。もし大人がその様子を賞賛していなかったとしても、まんざら嫌なものでもないのかもしれない、と嫌がるのをやめるのかもしれない。
こどもは自分と同じくらいの年齢のこどものすることにとても興味を持つ。そして対抗心をもったりするらしい。だから歯磨きの時、いくらわたしがほめても効果がなかったのに、小さな見物人=「おともだち」にほめられたことで、Kは行動を自らただしたのだろう。

こうして「見る/見られる」を通してこどもは成長していくのだ。

そしてそのような原理を根本に持つ演劇も、人を成長させることは間違いない。




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