ところでわたしにとって、ワークショップは今やかかすことのできない仕事になっている。対象は小学生、中学生、高校生、大学生、一般と出来るだけ年齢層を広めにしている。
右:宿から蔵造りの通りを通ってまつもと市民芸術館へ徒歩通勤
それは、演劇の外の世界の「他者」との出会いをもたらし、その出会いは、どんな地域のどんな世代の人が、今、どんなことを感じながら生きているのかを具体的におしえてくれる。
その具体的な人たちを意識しながら、わたしは作品を作る。せまい世界に閉じこもっていると、外界の現実とのズレに無頓着になってしまうことはよくあるが、ワークショップの仕事は、これをふせぐ役割を果たしてくれるので、創作活動にも大きく影響するかかせないものになっているのだ。
また、わたしがワークショップを積極的に行うもう一つの理由は「観客育成」にある。
十分な時間のワークショップを体験した参加者は、確実に表現の深さや豊かさ、多様さに触れ、未知の自己や他者と出会い、自らの鑑賞眼を開いていくのだ。
「現代~」とつく同時代的な表現には、わかりやすい、一方通行に受信するだけのいわゆるTV的な文法では解読不可能な表現も多いが、ワークショップを通じて、たとえばそういった現代的な表現世界やその面白さを体験してもらうこともできる。
左:草間弥生さんは長野のご出身、で、コカ・コーラもクサマトリックス
以上ふたつが、わたしがアーティストとして積極的にワークショップを行う動機だが、企画者(アーティストと参加者を出会わせる人。今回の研修では、公共劇場の制作者の立場)の側はどんな目的を持っているのだろうか。
これまでワークショップをご依頼いただいた企画者の目的はさまざまだったが、「NPO芸術家と子どもたち」の例は興味深く、それは、「学校という、ある面、風通しの悪いところへ、アーティストという変な人種を連れていって、ふだんとは違うモノの見方を体験してもらうこと」を目的としたものだった。
で、実際学校に行ってみると、なるほどと実感することが多々あった。
なにをするにも「マス」で動くこと、杓子定規な判断や規律、固定観念、などなど。
ただ、そうなってしまいがちなのもわかる気もする。
学校というところは、社会に出る前に、社会性を身につける場所でもある。時間と人手が十分ではない状況で、言うことをきかない大勢の子どもたちにルールを学ばせ守らせるためには、杓子定規にならざるを得ないこともある、というところだ。
しかし、心ある先生ほど、そんな状況に葛藤をいだいているし、子どもたちと真摯に向き合っている。
さて一方で、アーティストという人種は、そんな杓子定規なモノの見方をひっくり返したり、ぶちこわしたりする名人でもある。この「ひっくり返し」や「ぶちこわし」は現代芸術の宿命である。世界を硬直させてはならないことを、人類は近代から学んだのだ。
つづく
右:宿から蔵造りの通りを通ってまつもと市民芸術館へ徒歩通勤
それは、演劇の外の世界の「他者」との出会いをもたらし、その出会いは、どんな地域のどんな世代の人が、今、どんなことを感じながら生きているのかを具体的におしえてくれる。
その具体的な人たちを意識しながら、わたしは作品を作る。せまい世界に閉じこもっていると、外界の現実とのズレに無頓着になってしまうことはよくあるが、ワークショップの仕事は、これをふせぐ役割を果たしてくれるので、創作活動にも大きく影響するかかせないものになっているのだ。
また、わたしがワークショップを積極的に行うもう一つの理由は「観客育成」にある。
十分な時間のワークショップを体験した参加者は、確実に表現の深さや豊かさ、多様さに触れ、未知の自己や他者と出会い、自らの鑑賞眼を開いていくのだ。
「現代~」とつく同時代的な表現には、わかりやすい、一方通行に受信するだけのいわゆるTV的な文法では解読不可能な表現も多いが、ワークショップを通じて、たとえばそういった現代的な表現世界やその面白さを体験してもらうこともできる。
左:草間弥生さんは長野のご出身、で、コカ・コーラもクサマトリックス
以上ふたつが、わたしがアーティストとして積極的にワークショップを行う動機だが、企画者(アーティストと参加者を出会わせる人。今回の研修では、公共劇場の制作者の立場)の側はどんな目的を持っているのだろうか。
これまでワークショップをご依頼いただいた企画者の目的はさまざまだったが、「NPO芸術家と子どもたち」の例は興味深く、それは、「学校という、ある面、風通しの悪いところへ、アーティストという変な人種を連れていって、ふだんとは違うモノの見方を体験してもらうこと」を目的としたものだった。
で、実際学校に行ってみると、なるほどと実感することが多々あった。
なにをするにも「マス」で動くこと、杓子定規な判断や規律、固定観念、などなど。
ただ、そうなってしまいがちなのもわかる気もする。
学校というところは、社会に出る前に、社会性を身につける場所でもある。時間と人手が十分ではない状況で、言うことをきかない大勢の子どもたちにルールを学ばせ守らせるためには、杓子定規にならざるを得ないこともある、というところだ。
しかし、心ある先生ほど、そんな状況に葛藤をいだいているし、子どもたちと真摯に向き合っている。
さて一方で、アーティストという人種は、そんな杓子定規なモノの見方をひっくり返したり、ぶちこわしたりする名人でもある。この「ひっくり返し」や「ぶちこわし」は現代芸術の宿命である。世界を硬直させてはならないことを、人類は近代から学んだのだ。
つづく