先月の下旬、ひさしぶりにひとりで北九州を訪ねた。
こどもKは、初めてじぃとばぁの家にひとりでお泊まりである。
前日の予行練習はうまくいったので、なんとかなりそうだとひと安心して出かけてきた。
目的はこの秋の、市内の小学校でのワークショップの打ち合わせだ。
劇場学芸のNさんMさんの事前調査によると、この小学校は市街地からさほど離れているわけでもないのに、周辺地域とのつながりが薄く、こどもたちはこの狭い地域をすべてとして生活しており、さらに一学年1クラスという人数の少なさなので、6年間クラス替えはなし、ずっと一緒なのでお互いをわかりきってしまい、中学に行ってはじめて知らない友達と出会って、どう接したらよいか、コミュニケーションに悩むのが普通、ということらしかった。
女性の校長先生は、きびきびとして笑顔が絶えず、こどもたちや先生たちによかれと思うことはなんでもとりいれるという積極的な人で、ご挨拶に伺ったときもとても忙しそうにしていた。
この日は、ワークショップに参加する6年生の授業の見学、その後に先生方全員へのプレゼン?(わたしの活動の紹介)、そして担任の先生からの聞き取りと打ち合わせ、というスケジュールだった。
担任の先生は、以前に竹内敏晴氏のワークショップを受けていたり、独自に演劇の勉強をされていたりしていて、今回のワークショップにもとても協力的にのぞんでくださっていた。
こういう一学年1クラスの学校はおなじみのいわきにもあって、そこではもう一年生から一緒でお互いのこともわかりすぎていて、言わなくてもわかるみたいな状態だから、あまり話をしないから、人に自分の考えを伝えることがとても不得意になってしまうので、言葉の教育に力を入れて功を奏したと聞いた。
いわきのこどもたちがしゃべらないのに対して、小倉のこどもたちは逆にわかっているからなんでも言えちゃう、言われた方もたいして傷つかない、という関係になっているということだった。
興味深い話だ。
小倉のこどもたちはこの日、夏休みの英語の課外授業を受けていた。
校長先生は、「授業に参加してもいいし、こどもたちに話しかけてもいいし、好きにしてください」と言ってくださった。
こどもたちは、男の子が18人、女の子が8人の計26人で、ワークショップの理想的な人数よりは多いけど、わたしたちが小学生の頃のように1クラス40人なんて状況よりはまだぜんぜんいい。
夏休みで集中力がないのか、こどもたちは英語の授業中におしゃべりばかりしてる。とくに男の子たちは隣の子にちょっかいだしてふざけたりしていて、懐かしい風景だった。
もちろん先生はとてもやりにくそうで、ふざけている子が手をあげても無視を決めこんでいた。
あとで担任の先生に聞いたら、英語は不得意な子も多く、自信がないこともあって授業中ついふまじめな態度をとってしまうということだった。
6年生の夏休みである。春の6年生はまだ5年生の雰囲気が抜けてなくてぼーっとしてたりこどもらしい素直さやいたずらやおふざけが見えるのに、これが冬頃になると思春期に入ってくる子もでてきて、こどもっぽいことなんかやってられるか的な、ナナメな態度も見えてくる。
このクラスにももうそんな子がいた。全体の雰囲気は元気。言いたいことを言いあえる関係もわかる。
こうして事前にこどもたちの姿を見られると、内容を考える時ずいぶん助けになる。
先生からの聞き取りだけだと、「おとなしい」と聞いたわりには騒がしいとか、聞いた話と実際の印象が違っていることも多く、考えてきた内容を当日その場で変更しなければならないことも多かった。
さてこんなこどもたちには、どんなワークショップをしたらいいのか。
よく先生方に要望を聞くと、いじめなんかの問題で、他者の気持ちになって、ともだちに思いやりを持って接するようになってほしいというものがある。
これは他者の立場を演じてみるとか、他者と一緒に、他者を気遣いながら表現を作る演劇の得意なところだけど、自分で少し反省するのは、最近は先生の要望をくみすぎて、道徳に近づきすぎていたんじゃないだろうかということだ。
最近は、ひとつひとつのワークショップのメニューに対して、なぜ演劇ではこういうゲームやトレーニングをするのか、その方がわかりやすいという理由で終わった後に説明を入れるようになっていて、そこで道徳的なことを言わなければならないのがなんとなく気恥ずかったり、なんか違う、と違和感を感じたりしていたのだった。
こどもたちに社会で生きていくための基本的なルールをおしえこまなければならないのは本当にその通りで、先生のご苦労も想像するのだけれど、演劇にかぎらず芸術はきれいごとでは済まされず、むしろ社会のルールを一時的に壊したり乗り越えたりすることで、本当に意味での社会や人の健康を保つという役割を持っているので、たぶんそのへんが難しく違和感を感じるところだったんだろう。
はっきりした。
その役割を、道徳の方に寄りすぎることなく全うできたらいいんだけど、そうすると教育上よろしくないということで排除されてしまう可能性もあるだろうと、今までの学校での経験からそう思う。いずれにしろ追い出されては困るので、追い出されない程度にバランスをとっていく必要があるということか。
それから多いのは、自分の意見を恥ずかしがらずにどうどうと言えるようになってほしいという要望も多い。
俳優が人前でどうどうと演技をしたりするから、人前での表現が上手になる、という印象になるのだろう。
まあ、演劇体験を通じて、そうならなくはない、と思う。けど、それは時間をかけて継続した場合の話で、たった一回のワークショップでそうなる可能性はかなり低いと思う。
というか、そもそも俳優という人種はそれが不得手だから、自分ではない人を演じることでどうどうと表現できる機会を得ているので、素で他者とコミュニケーションを取るのはとても苦手、という人が多い。
短時間の演劇ワークショップで可能なのは、そういう日常のコミュニケーションとは違うレベル、つまり演劇という嘘ありなんでもありの非日常的なレベルで、日常とは違う表現の仕方でコミュニケーションをとってみよう、そうすると、今まで気づかなかった自分やともだちの一面に気づいたり、少し世界の見え方が変わったりすることがあるよ、ということなのだ。
わたしが演劇ワークショップを熱心にしてしまう理由は、わたし自身が演劇によって救われたという実感があり、演劇に触れることで救われる子や人もいるかもしれないと思い、自分の手にした知恵をできるだけ多くの人に手渡したいと思うからだ。
「キャラ分け」や「KY」に苦しむいわきの演劇部の高校生たちに、「演劇部じゃない子も、みんなが演劇をやったらキャラ分けとかKYとかで苦しむことはなくなるんじゃない?」と聞いてみたら、みんなはっとした顔で一瞬だまり少し考えたのち「そう思う」と、全員が言った。
一般的に「演劇」はずいぶん誤解されてるなと思う。演劇の本当の力はほんとに知られていない。
さて小倉のこどもたちである。
彼彼女らになにを手渡すことができるんだろうか。
これまでの事前調査で考えてみると、視野をぱっと広げてあげられるようなこと、世界の広さを肯定的にとらえられるようなこと、知らない世界を面白いと感じられるようなこと、だろうか。
どんな手法で?
今までと違う、新しいワークショップをやってみたいと思う。
明後日は台風がくる予定だけど、だんなの実家の福岡に帰省するついでに、また小倉のこどもたちにも会いに行く。ありがたいことに担任の先生が、こどもたちと自由に使える時間を1コマ、わたしにくださったのである。この1コマをプレワークショップとして、こどもたちと話をしたいと思う。
この秋の本番のワークショップをうまく運ぶための大事な一歩になる。この時間を大切に過ごしてきたいと思う。
こどもKは、初めてじぃとばぁの家にひとりでお泊まりである。
前日の予行練習はうまくいったので、なんとかなりそうだとひと安心して出かけてきた。
目的はこの秋の、市内の小学校でのワークショップの打ち合わせだ。
劇場学芸のNさんMさんの事前調査によると、この小学校は市街地からさほど離れているわけでもないのに、周辺地域とのつながりが薄く、こどもたちはこの狭い地域をすべてとして生活しており、さらに一学年1クラスという人数の少なさなので、6年間クラス替えはなし、ずっと一緒なのでお互いをわかりきってしまい、中学に行ってはじめて知らない友達と出会って、どう接したらよいか、コミュニケーションに悩むのが普通、ということらしかった。
女性の校長先生は、きびきびとして笑顔が絶えず、こどもたちや先生たちによかれと思うことはなんでもとりいれるという積極的な人で、ご挨拶に伺ったときもとても忙しそうにしていた。
この日は、ワークショップに参加する6年生の授業の見学、その後に先生方全員へのプレゼン?(わたしの活動の紹介)、そして担任の先生からの聞き取りと打ち合わせ、というスケジュールだった。
担任の先生は、以前に竹内敏晴氏のワークショップを受けていたり、独自に演劇の勉強をされていたりしていて、今回のワークショップにもとても協力的にのぞんでくださっていた。
こういう一学年1クラスの学校はおなじみのいわきにもあって、そこではもう一年生から一緒でお互いのこともわかりすぎていて、言わなくてもわかるみたいな状態だから、あまり話をしないから、人に自分の考えを伝えることがとても不得意になってしまうので、言葉の教育に力を入れて功を奏したと聞いた。
いわきのこどもたちがしゃべらないのに対して、小倉のこどもたちは逆にわかっているからなんでも言えちゃう、言われた方もたいして傷つかない、という関係になっているということだった。
興味深い話だ。
小倉のこどもたちはこの日、夏休みの英語の課外授業を受けていた。
校長先生は、「授業に参加してもいいし、こどもたちに話しかけてもいいし、好きにしてください」と言ってくださった。
こどもたちは、男の子が18人、女の子が8人の計26人で、ワークショップの理想的な人数よりは多いけど、わたしたちが小学生の頃のように1クラス40人なんて状況よりはまだぜんぜんいい。
夏休みで集中力がないのか、こどもたちは英語の授業中におしゃべりばかりしてる。とくに男の子たちは隣の子にちょっかいだしてふざけたりしていて、懐かしい風景だった。
もちろん先生はとてもやりにくそうで、ふざけている子が手をあげても無視を決めこんでいた。
あとで担任の先生に聞いたら、英語は不得意な子も多く、自信がないこともあって授業中ついふまじめな態度をとってしまうということだった。
6年生の夏休みである。春の6年生はまだ5年生の雰囲気が抜けてなくてぼーっとしてたりこどもらしい素直さやいたずらやおふざけが見えるのに、これが冬頃になると思春期に入ってくる子もでてきて、こどもっぽいことなんかやってられるか的な、ナナメな態度も見えてくる。
このクラスにももうそんな子がいた。全体の雰囲気は元気。言いたいことを言いあえる関係もわかる。
こうして事前にこどもたちの姿を見られると、内容を考える時ずいぶん助けになる。
先生からの聞き取りだけだと、「おとなしい」と聞いたわりには騒がしいとか、聞いた話と実際の印象が違っていることも多く、考えてきた内容を当日その場で変更しなければならないことも多かった。
さてこんなこどもたちには、どんなワークショップをしたらいいのか。
よく先生方に要望を聞くと、いじめなんかの問題で、他者の気持ちになって、ともだちに思いやりを持って接するようになってほしいというものがある。
これは他者の立場を演じてみるとか、他者と一緒に、他者を気遣いながら表現を作る演劇の得意なところだけど、自分で少し反省するのは、最近は先生の要望をくみすぎて、道徳に近づきすぎていたんじゃないだろうかということだ。
最近は、ひとつひとつのワークショップのメニューに対して、なぜ演劇ではこういうゲームやトレーニングをするのか、その方がわかりやすいという理由で終わった後に説明を入れるようになっていて、そこで道徳的なことを言わなければならないのがなんとなく気恥ずかったり、なんか違う、と違和感を感じたりしていたのだった。
こどもたちに社会で生きていくための基本的なルールをおしえこまなければならないのは本当にその通りで、先生のご苦労も想像するのだけれど、演劇にかぎらず芸術はきれいごとでは済まされず、むしろ社会のルールを一時的に壊したり乗り越えたりすることで、本当に意味での社会や人の健康を保つという役割を持っているので、たぶんそのへんが難しく違和感を感じるところだったんだろう。
はっきりした。
その役割を、道徳の方に寄りすぎることなく全うできたらいいんだけど、そうすると教育上よろしくないということで排除されてしまう可能性もあるだろうと、今までの学校での経験からそう思う。いずれにしろ追い出されては困るので、追い出されない程度にバランスをとっていく必要があるということか。
それから多いのは、自分の意見を恥ずかしがらずにどうどうと言えるようになってほしいという要望も多い。
俳優が人前でどうどうと演技をしたりするから、人前での表現が上手になる、という印象になるのだろう。
まあ、演劇体験を通じて、そうならなくはない、と思う。けど、それは時間をかけて継続した場合の話で、たった一回のワークショップでそうなる可能性はかなり低いと思う。
というか、そもそも俳優という人種はそれが不得手だから、自分ではない人を演じることでどうどうと表現できる機会を得ているので、素で他者とコミュニケーションを取るのはとても苦手、という人が多い。
短時間の演劇ワークショップで可能なのは、そういう日常のコミュニケーションとは違うレベル、つまり演劇という嘘ありなんでもありの非日常的なレベルで、日常とは違う表現の仕方でコミュニケーションをとってみよう、そうすると、今まで気づかなかった自分やともだちの一面に気づいたり、少し世界の見え方が変わったりすることがあるよ、ということなのだ。
わたしが演劇ワークショップを熱心にしてしまう理由は、わたし自身が演劇によって救われたという実感があり、演劇に触れることで救われる子や人もいるかもしれないと思い、自分の手にした知恵をできるだけ多くの人に手渡したいと思うからだ。
「キャラ分け」や「KY」に苦しむいわきの演劇部の高校生たちに、「演劇部じゃない子も、みんなが演劇をやったらキャラ分けとかKYとかで苦しむことはなくなるんじゃない?」と聞いてみたら、みんなはっとした顔で一瞬だまり少し考えたのち「そう思う」と、全員が言った。
一般的に「演劇」はずいぶん誤解されてるなと思う。演劇の本当の力はほんとに知られていない。
さて小倉のこどもたちである。
彼彼女らになにを手渡すことができるんだろうか。
これまでの事前調査で考えてみると、視野をぱっと広げてあげられるようなこと、世界の広さを肯定的にとらえられるようなこと、知らない世界を面白いと感じられるようなこと、だろうか。
どんな手法で?
今までと違う、新しいワークショップをやってみたいと思う。
明後日は台風がくる予定だけど、だんなの実家の福岡に帰省するついでに、また小倉のこどもたちにも会いに行く。ありがたいことに担任の先生が、こどもたちと自由に使える時間を1コマ、わたしにくださったのである。この1コマをプレワークショップとして、こどもたちと話をしたいと思う。
この秋の本番のワークショップをうまく運ぶための大事な一歩になる。この時間を大切に過ごしてきたいと思う。