今週は3日間、円演劇研究所本科生の演技実習授業があった。
27人のクラスが2つ、1コマ3時間なので、一日6時間で54人を相手にしなければならない。
こんな人数の多さは小学校でのワークショップのほかにはなくて、まあだいたい20歳を過ぎた大人相手だから小学生よりは楽だけど、とにかくまずはその一人一人をみていくので、すごい集中力が必要だし、すごく頭も使うし、終わった後は放心状態で、すぐにうちに帰る気力もないくらい疲れている。
でもこんなに疲れているのに、家でもずっと彼らのレポートを読んだり、なにをしたらいいか考えたりするのが楽しいのは不思議だなと思うし、次は来週なので、また来週まで彼らに会えないのがちょっとさびしい。
この一週間はこどもを実家にあずけているので、時間をフルに自分のために使える。妊娠前はずっとそれが普通だったけど、人にとって別にそれはぜんぜん普通の状態じゃないということは、恥ずかしながら子を持って初めて知った。
さて研究所の話である。円の研究生には年齢制限がなくなったので、なかには30代もいて、ちらほらと10代もいるけど、そのほとんどは20代前半がしめている。
この世代はいわゆる就職氷河期世代、ロストジェネレーションとか、学校で「ゆとりの時間」を過ごした「ゆとり世代」とか言われる世代だ。
一番多いのは20歳という年齢で、高校を卒業して専門学校に行き、4年大学に入ったつもりであと2年という感じで入るのかな。
このあたりの世代とはわたしは縁が深く、4、5年授業を受けもっていたG大の学生たち、高校演劇クリニックワークショップで出会った当時の高校生たち、それからいわき総合高校で一緒に作品を作った当時の高校生たちもみんなだいたいこの世代だ。
とくに「ゆとり世代」がなんかおかしい、と初めて思ったのは当時のG大の1年生たちの普段の様子を目にした時だった。とにかくなんにも可笑しいことなんかない会話なのに、みんなでたわむれてけらけら笑っている。あまりにも意味不明な言動に、ジェネレーションギャップもすさまじいなと思いつつ彼女たちの様子をみていたのだが、そのすぐ後にいわき総合高校の2年生のアトリエ公演の仕事を受けて、数ヶ月かけて彼らと一緒に作品を作った時、そのG大生たちの言動が初めて理解できた。
その時のことは以前このブログでも触れたかもしれない。彼らの日常は「KY」とか「キャラ分け」という言葉で表現された。
有名な「KY」は「空気読めない」の略で、たとえば「あいつKYじゃない?」みたいな使い方をして「あいつ空気読めないよね?」の意味になる。
「キャラ分け」というのは、「ぼけ役」とか「つっこみ役」とか自分で自分のキャラを決めて、友だちと一緒にいる時、そのキャラをうまく演じて過ごすことだ。
これは違う世代にはほとんどわからない。
詳しく聞いていくと「え!ほんとにそんなことやってんの!!?」とびっくりするようなことだ。
「空気を読む」ことはこの世代じゃなくてもまあだいたいの人がやっているし、その行為自体にはなにも問題はない。
問題は、なんのために読み、読んでどうするのかだ。
彼らにとって大事な空気とは、おもに楽しい空気をさす。でその楽しい空気を作るために、たとえば「ぼけ」とか「つっこみ」とかの役を自分で決めて、そのキャラを演じながら「楽しい空気」をみんなで作り出したり、盛り上がったりしようとする。はたで聞いているとそれはあたかもなにかのゲームのようだ。ルールは、「場をもり下げてはならない」「楽しい空気を壊してはならない」ということで、そのためになら作り笑いだってがんばるし、人と違う考えや感情を持ってもそれを押さえこんで必死で周囲に合わせ、「和」を乱さないように努力する。ルール破りの罰は「仲間はずれ」と「あの人へん」のレッテル貼り。
「ルールを破ったらどうなるの?」と聞くとある高校生が「殺される!」と叫んだ。
みんな全身全霊をかけ必死でこのゲームに取り組んでいる。
仲間はずれにされないために、「あのひとへん」と言われないために。
それはもう本当に必死で、そのために生じた感情の矛盾や苦しみを解消すべく、ある時から自分で自分を改造し始め、いつのまにかそれを本当のわたしと思いこんでしまった子もいる。改造人間である。
そんなふうに学生時代を過ごし、彼らは社会にでていく。
他者を批判することを避け、「和」を尊び、「へん」と思われないように必死で周囲に言動を合わせ、不況のため失敗を極度に恐れるがゆえの真面目さと慎重さを持つ「ゆとり世代」を、そんな彼らの事情を知らない上の世代はよく彼らを「無個性」と評するらしい。
しかしはたして彼らは本当に「無個性」なんだろうか?
そもそも彼らはいつからKYやキャラ分けのゲームを始めるのかというと、だいたい小学5、6年生あたりからだという。その頃から、人と違う考え、人を不快な気分にさせると思われる考えや感情は、彼らの体の中に閉じ込められて出口を失い、悲しみや怒りに変化し、日々次々とため込まれ強大なエネルギーとなって、いつか出口が開くのを彼らの体の内で息をひそめて待っている。
そんなものを体の中に飼っているのは本当に苦しいので、時折それでそのエネルギーを外に爆発させることがあり、それが「キレる」という現象だ。「自分はそうは思わない」「本当は嫌だ」という感情が生まれた時、それを伝える術を学ぶ機会のなかった彼らは、それを伝える時、体の中で増大した怒りのエネルギーを必死で外に放出する。そしてそのゲームの掟破りは彼らにとって、自分の居場所をなくすことを意味している、ということだ。
なにが彼らのこんな苦しい状況を作りだしているのか?
考えられる大きな要因は2つ、「多様化」「不況」だろうか。
たとえばわたしはバブルに少しひっかかった世代だが、わたしのこども時代と彼らのこども時代はかなり違う。わたしたちがこども時代や思春期を過ごす頃には、携帯もなかったしもちろんパソコンもなかった。音楽といえばテレビの「ザ・ベストテン」とか「MTB」とか、そこではやってる歌はみんなが知ってたし、娯楽も遊びもそんなに選択肢がなく、それをみんなでシェアしていた。そしてネット、メールがないので情報量は今より圧倒的に少ないし、伝わり方の速度も遅い。
それが、20代前半とかの彼らは、もう携帯だのパソコンだのが一般に広く普及しはじめた頃に成長期を過ごしている。大量の情報へのアクセスが容易になると、自分の好みのものへのアクセスもしやすくなり、趣味や娯楽の選択肢も広がり、「多様」になる。
「多様」であるということは、情報量と比例して自分の専門外とか知らないことが増えるということでもある。そこで難しくなるのが「共感」である。日本人がとくに尊ぶものでもある。
人と共感して同じ感情を分かち合う喜びが得られないと、「孤独」に襲われる。
それは深い孤独に違いないだろう。
彼らは人を不快な気分にさせてはいけない使命を持っているので、自分の悩みを人に打ち明けたりしない。また人の悩みを聞いてもどうすることもできないし、また聞くのも正直面倒くさかったりするので、人の悩みも聞きたくない。
それでも共通の話題をむりやりでも探してなんとか盛り上がって楽しい雰囲気を作らなくては、自分の「孤独」が増大してしまうので、嘘でもいいから友だちと一緒にいたいのである。苦しくても「一人よりはまし」なのだ。
この世代にとっての問題はとにかく「コミュニケーション」なのだ。「コミュニケーション」という言葉はもうずいぶん前からもてはやされているが、いったい誰がどんなコミュニケーションが大事としてどこでどんな指導を行っているのか不思議に思う。
そして時代はバブル崩壊後の不況と混乱、小泉構造改革である。
アメリカ型の新自由主義は「市場で自分を売れない人間に生きる価値はない」と言わんばかりの「自己責任論」をふりかざす。だれもが、明日自分のお父さんがクビになったり会社や店が倒産したりして一家が食えなくなってもおかしくない状況におちいる。たった一度の失敗が命取りになることもある。
大人たちの萎縮や緊張は当然こどもたちにも伝わっていくだろうし、彼らの将来を案じ、社会の厳しさを彼らに伝えていくだろう。
そう脅され続けることで「失敗」を極度に恐れるようになるのは当然かもしれない。大事なのは「真面目にがんばること」と「優等生であること」なのだ。
にもかかわらず彼らは「ゆとり」をとらなくてはならないのである。
さらに社会的要因を探るとすれば「管理」だろうか。このへんは子育てする親世代の意識のありようと関わってもくるので、また後で書いてみたい。
でこんなロスジェネ、ゆとり世代のキーワードは、「楽しむ」「共感」「使い分け」だ。
世は不況でお金ないし、希望もどうせかなわないから最初からあきらめた方が苦しい思いをしなくてすむ、でもそれでも人生は続くので、だったらできる範囲で楽しもうよ、というなかば開き直りに近いこの態度が、彼らの生産的な一面かもしれない。もしそれが「ゆとり」教育によってもたらされたものなら「ゆとり」教育も少しは甲斐があったと考えていいのだろうか?
授業を始めるにあたって、「演劇と人生で大事なことはなにか?」という課題でレポートを書いてもらった。そこにはこれらのキーワードがたくさん並んでいた。
そして今週の授業では、彼らの多くが押し込めてきた思いとエネルギーを体の外に「表現」した。
もちろんたくさんの怒りや悲しみが大きなエネルギーとともに湧き出てきた。
そうして彼らを覆っていた殻がはがれてでてきたのは、20年前わたしたちが研究生だった頃とたいした違いはない稽古場の風景だった。「いったい彼らのどこが無個性なの?」と聞きたくなるような。
「こども」という存在は、自分を虐待する親でさえ愛する、「愛」の存在であるという、シュタイナー教育者の言葉がある。どんな親もせめることなく、自分が悪いと思いこむ。そのように生まれつき、輪をかけて自分のせいだ、自分が悪いという自己責任論を刷りこまれた多くの若い世代は、まずそれを疑うことから始めなければならない。
人は誰も生まれた時代と場所にふりまわされて生きる。
そしてそんな社会に新しい価値を見つけ育て、社会を変えていくのもそれぞれの世代に与えられた仕事だ。
演劇は彼らを苦しみから必ず解放する。
演劇はたえず自己と他者、そして世界に対しての発見と認識をうながす装置だからだ。
わたしは今、日本において演劇は「観る」ことよりも「やる」ことに価値があると思いつつある。
みんなが演劇をやる仕組みができたら、どれだけ日本国民は苦しみや孤独から解放され、創造的で生産的な生活ができるようになるだろうかと思う。もちろんそれは演劇だけではない。芸術はそんな力を持っている。それにやっと行政も気づきつつあるのか、豊島アートステーション構想なんかは願ったりかなったりの先進的な試みである。
以前、いわき総合高校で高校生たちと「KY」や「キャラ分け」についての彼らのドキュメント作品を作った際、作品を見て高校生たちの現実を記事に書いてほしいと地元紙の方に依頼され、とにかく多くの大人はこの現実を知るべしと、「書きます」と即答したのだが、当時仕事がたてこんでいてなかなか時間がとれなかったのと、その後すぐ妊娠してしまったことで、ずっと書けずにいた。
もしまだ原稿を書かせてもらえる余地が残っていれば、この日記を下書きにでもいつか書かなくちゃと思っている。
27人のクラスが2つ、1コマ3時間なので、一日6時間で54人を相手にしなければならない。
こんな人数の多さは小学校でのワークショップのほかにはなくて、まあだいたい20歳を過ぎた大人相手だから小学生よりは楽だけど、とにかくまずはその一人一人をみていくので、すごい集中力が必要だし、すごく頭も使うし、終わった後は放心状態で、すぐにうちに帰る気力もないくらい疲れている。
でもこんなに疲れているのに、家でもずっと彼らのレポートを読んだり、なにをしたらいいか考えたりするのが楽しいのは不思議だなと思うし、次は来週なので、また来週まで彼らに会えないのがちょっとさびしい。
この一週間はこどもを実家にあずけているので、時間をフルに自分のために使える。妊娠前はずっとそれが普通だったけど、人にとって別にそれはぜんぜん普通の状態じゃないということは、恥ずかしながら子を持って初めて知った。
さて研究所の話である。円の研究生には年齢制限がなくなったので、なかには30代もいて、ちらほらと10代もいるけど、そのほとんどは20代前半がしめている。
この世代はいわゆる就職氷河期世代、ロストジェネレーションとか、学校で「ゆとりの時間」を過ごした「ゆとり世代」とか言われる世代だ。
一番多いのは20歳という年齢で、高校を卒業して専門学校に行き、4年大学に入ったつもりであと2年という感じで入るのかな。
このあたりの世代とはわたしは縁が深く、4、5年授業を受けもっていたG大の学生たち、高校演劇クリニックワークショップで出会った当時の高校生たち、それからいわき総合高校で一緒に作品を作った当時の高校生たちもみんなだいたいこの世代だ。
とくに「ゆとり世代」がなんかおかしい、と初めて思ったのは当時のG大の1年生たちの普段の様子を目にした時だった。とにかくなんにも可笑しいことなんかない会話なのに、みんなでたわむれてけらけら笑っている。あまりにも意味不明な言動に、ジェネレーションギャップもすさまじいなと思いつつ彼女たちの様子をみていたのだが、そのすぐ後にいわき総合高校の2年生のアトリエ公演の仕事を受けて、数ヶ月かけて彼らと一緒に作品を作った時、そのG大生たちの言動が初めて理解できた。
その時のことは以前このブログでも触れたかもしれない。彼らの日常は「KY」とか「キャラ分け」という言葉で表現された。
有名な「KY」は「空気読めない」の略で、たとえば「あいつKYじゃない?」みたいな使い方をして「あいつ空気読めないよね?」の意味になる。
「キャラ分け」というのは、「ぼけ役」とか「つっこみ役」とか自分で自分のキャラを決めて、友だちと一緒にいる時、そのキャラをうまく演じて過ごすことだ。
これは違う世代にはほとんどわからない。
詳しく聞いていくと「え!ほんとにそんなことやってんの!!?」とびっくりするようなことだ。
「空気を読む」ことはこの世代じゃなくてもまあだいたいの人がやっているし、その行為自体にはなにも問題はない。
問題は、なんのために読み、読んでどうするのかだ。
彼らにとって大事な空気とは、おもに楽しい空気をさす。でその楽しい空気を作るために、たとえば「ぼけ」とか「つっこみ」とかの役を自分で決めて、そのキャラを演じながら「楽しい空気」をみんなで作り出したり、盛り上がったりしようとする。はたで聞いているとそれはあたかもなにかのゲームのようだ。ルールは、「場をもり下げてはならない」「楽しい空気を壊してはならない」ということで、そのためになら作り笑いだってがんばるし、人と違う考えや感情を持ってもそれを押さえこんで必死で周囲に合わせ、「和」を乱さないように努力する。ルール破りの罰は「仲間はずれ」と「あの人へん」のレッテル貼り。
「ルールを破ったらどうなるの?」と聞くとある高校生が「殺される!」と叫んだ。
みんな全身全霊をかけ必死でこのゲームに取り組んでいる。
仲間はずれにされないために、「あのひとへん」と言われないために。
それはもう本当に必死で、そのために生じた感情の矛盾や苦しみを解消すべく、ある時から自分で自分を改造し始め、いつのまにかそれを本当のわたしと思いこんでしまった子もいる。改造人間である。
そんなふうに学生時代を過ごし、彼らは社会にでていく。
他者を批判することを避け、「和」を尊び、「へん」と思われないように必死で周囲に言動を合わせ、不況のため失敗を極度に恐れるがゆえの真面目さと慎重さを持つ「ゆとり世代」を、そんな彼らの事情を知らない上の世代はよく彼らを「無個性」と評するらしい。
しかしはたして彼らは本当に「無個性」なんだろうか?
そもそも彼らはいつからKYやキャラ分けのゲームを始めるのかというと、だいたい小学5、6年生あたりからだという。その頃から、人と違う考え、人を不快な気分にさせると思われる考えや感情は、彼らの体の中に閉じ込められて出口を失い、悲しみや怒りに変化し、日々次々とため込まれ強大なエネルギーとなって、いつか出口が開くのを彼らの体の内で息をひそめて待っている。
そんなものを体の中に飼っているのは本当に苦しいので、時折それでそのエネルギーを外に爆発させることがあり、それが「キレる」という現象だ。「自分はそうは思わない」「本当は嫌だ」という感情が生まれた時、それを伝える術を学ぶ機会のなかった彼らは、それを伝える時、体の中で増大した怒りのエネルギーを必死で外に放出する。そしてそのゲームの掟破りは彼らにとって、自分の居場所をなくすことを意味している、ということだ。
なにが彼らのこんな苦しい状況を作りだしているのか?
考えられる大きな要因は2つ、「多様化」「不況」だろうか。
たとえばわたしはバブルに少しひっかかった世代だが、わたしのこども時代と彼らのこども時代はかなり違う。わたしたちがこども時代や思春期を過ごす頃には、携帯もなかったしもちろんパソコンもなかった。音楽といえばテレビの「ザ・ベストテン」とか「MTB」とか、そこではやってる歌はみんなが知ってたし、娯楽も遊びもそんなに選択肢がなく、それをみんなでシェアしていた。そしてネット、メールがないので情報量は今より圧倒的に少ないし、伝わり方の速度も遅い。
それが、20代前半とかの彼らは、もう携帯だのパソコンだのが一般に広く普及しはじめた頃に成長期を過ごしている。大量の情報へのアクセスが容易になると、自分の好みのものへのアクセスもしやすくなり、趣味や娯楽の選択肢も広がり、「多様」になる。
「多様」であるということは、情報量と比例して自分の専門外とか知らないことが増えるということでもある。そこで難しくなるのが「共感」である。日本人がとくに尊ぶものでもある。
人と共感して同じ感情を分かち合う喜びが得られないと、「孤独」に襲われる。
それは深い孤独に違いないだろう。
彼らは人を不快な気分にさせてはいけない使命を持っているので、自分の悩みを人に打ち明けたりしない。また人の悩みを聞いてもどうすることもできないし、また聞くのも正直面倒くさかったりするので、人の悩みも聞きたくない。
それでも共通の話題をむりやりでも探してなんとか盛り上がって楽しい雰囲気を作らなくては、自分の「孤独」が増大してしまうので、嘘でもいいから友だちと一緒にいたいのである。苦しくても「一人よりはまし」なのだ。
この世代にとっての問題はとにかく「コミュニケーション」なのだ。「コミュニケーション」という言葉はもうずいぶん前からもてはやされているが、いったい誰がどんなコミュニケーションが大事としてどこでどんな指導を行っているのか不思議に思う。
そして時代はバブル崩壊後の不況と混乱、小泉構造改革である。
アメリカ型の新自由主義は「市場で自分を売れない人間に生きる価値はない」と言わんばかりの「自己責任論」をふりかざす。だれもが、明日自分のお父さんがクビになったり会社や店が倒産したりして一家が食えなくなってもおかしくない状況におちいる。たった一度の失敗が命取りになることもある。
大人たちの萎縮や緊張は当然こどもたちにも伝わっていくだろうし、彼らの将来を案じ、社会の厳しさを彼らに伝えていくだろう。
そう脅され続けることで「失敗」を極度に恐れるようになるのは当然かもしれない。大事なのは「真面目にがんばること」と「優等生であること」なのだ。
にもかかわらず彼らは「ゆとり」をとらなくてはならないのである。
さらに社会的要因を探るとすれば「管理」だろうか。このへんは子育てする親世代の意識のありようと関わってもくるので、また後で書いてみたい。
でこんなロスジェネ、ゆとり世代のキーワードは、「楽しむ」「共感」「使い分け」だ。
世は不況でお金ないし、希望もどうせかなわないから最初からあきらめた方が苦しい思いをしなくてすむ、でもそれでも人生は続くので、だったらできる範囲で楽しもうよ、というなかば開き直りに近いこの態度が、彼らの生産的な一面かもしれない。もしそれが「ゆとり」教育によってもたらされたものなら「ゆとり」教育も少しは甲斐があったと考えていいのだろうか?
授業を始めるにあたって、「演劇と人生で大事なことはなにか?」という課題でレポートを書いてもらった。そこにはこれらのキーワードがたくさん並んでいた。
そして今週の授業では、彼らの多くが押し込めてきた思いとエネルギーを体の外に「表現」した。
もちろんたくさんの怒りや悲しみが大きなエネルギーとともに湧き出てきた。
そうして彼らを覆っていた殻がはがれてでてきたのは、20年前わたしたちが研究生だった頃とたいした違いはない稽古場の風景だった。「いったい彼らのどこが無個性なの?」と聞きたくなるような。
「こども」という存在は、自分を虐待する親でさえ愛する、「愛」の存在であるという、シュタイナー教育者の言葉がある。どんな親もせめることなく、自分が悪いと思いこむ。そのように生まれつき、輪をかけて自分のせいだ、自分が悪いという自己責任論を刷りこまれた多くの若い世代は、まずそれを疑うことから始めなければならない。
人は誰も生まれた時代と場所にふりまわされて生きる。
そしてそんな社会に新しい価値を見つけ育て、社会を変えていくのもそれぞれの世代に与えられた仕事だ。
演劇は彼らを苦しみから必ず解放する。
演劇はたえず自己と他者、そして世界に対しての発見と認識をうながす装置だからだ。
わたしは今、日本において演劇は「観る」ことよりも「やる」ことに価値があると思いつつある。
みんなが演劇をやる仕組みができたら、どれだけ日本国民は苦しみや孤独から解放され、創造的で生産的な生活ができるようになるだろうかと思う。もちろんそれは演劇だけではない。芸術はそんな力を持っている。それにやっと行政も気づきつつあるのか、豊島アートステーション構想なんかは願ったりかなったりの先進的な試みである。
以前、いわき総合高校で高校生たちと「KY」や「キャラ分け」についての彼らのドキュメント作品を作った際、作品を見て高校生たちの現実を記事に書いてほしいと地元紙の方に依頼され、とにかく多くの大人はこの現実を知るべしと、「書きます」と即答したのだが、当時仕事がたてこんでいてなかなか時間がとれなかったのと、その後すぐ妊娠してしまったことで、ずっと書けずにいた。
もしまだ原稿を書かせてもらえる余地が残っていれば、この日記を下書きにでもいつか書かなくちゃと思っている。