阿部初美のブログ

演劇の演出家です。

2012年05月

「子育てを考える」 vol.2-20代とこども-/世田谷

19日土曜日に世田谷パブリックシアター主催「子育てを考える」ワークショップの第2回目があった。
この回はうちも旦那が休みなので、こどもも連れて3人で出かける。こうして家族に自分の仕事の現場に参加してもらえるのは幸せだなあと思う。

この日は、学校や保育園・幼稚園がお休みなので、うちの子だけじゃなく、参加メンバーのこどもたちもたくさん遊びに来てくれた。ワークショップルームの一角に作られたキッズスペースあたりでこどもたちがそれぞれ遊び始める中、ゆるゆるワークショップを始めた。

こどもたちの他、多かったのが20代である。円の研究生女子たちがこの回のみ参加だったり、唯一の20代男性参加者Tくんもこの日参加の予定だったので、この日は「こども&20代スペシャル」にした。

1、今の若い世代が家庭を持つ、こどもを持つことの経済的な困難

ところが問題提議した当のTくんがお休み。Tくん抜きの20代女子3人と世田谷関係者のWSファシリテーターOくん、某県の公共劇場学芸のMさんの5人で、「今の若い世代が家庭を持つ、こどもを持つことの経済的な困難」をテーマにディスカッションしてもらうことになった。
でてきたのは「自己実現の方が先で、こどものことは漠然としか考えられない」とか、「経済的なことはなんとかなる」「いやそんなに甘くない!」とか「地域にはなかなか入れない」「親があてにできるならした方がいい」「親も孫が生き甲斐になるのでは」という意見だった。

次は上の世代、だいたい40代の5人に、同じテーマについてディスカッションしてもらう。
今度はどちらかというと彼らの親世代に近い世代で、20代が親をあてにしようとしているのを知ってでたのがまず「子育てが終わって、やっとこれから自分の時間ができると思っていたのに、今度は孫の世話であてにされるなんて〜!」という意見。たしかに今現役で孫の世話をしている世代とくらべると、これから祖父母になっていく世代は、すでに女性も仕事でばりばり働いたり、独身時代に自分のプライベートな時間を充実できた世代だから、子育てが終わったらまた自分の時間を楽しみたいと思う人は多いかもしれない。
結果的には「地域を頼れ、声をあげろ」という、若者へのアドバイスでまとまった。
この回ここにすわった人たちはどこでも生きていけそうなタイプの人々だった。

確かに声をあげなきゃ仕方ないんだけど、みんながみんなそうできて、まわりもちゃんとその声を受けとめられてたらなんにも問題はない。双方それができないから今たくさんの問題や事件が起こっている。今度はちょっとテーマのハードルをあげて「今のこの難しい状況をどうしたらいいか」について、人形を使ってディスカッションしてもらう。メンバーの世代は今度はバラバラ。
「こどもの遊び場がないから地域の交流が生まれない。公園をもっと作る。マンション作る時とかもみんなで集まる広場を作るとか、設計から始める」「お金で解決もできない、親も頼れない、という状況だったらどうしたらいい?」「地域には生活レベルが同じじゃない人が集まった方がいい」
などなどの話がでた。

このへんで新しい環境で集中して遊んでいたこどもたちが飽き始めたのか、泣き声や騒ぎ声が聞こえ始める。残り時間も少なくなってきたので、このテーマはここまでにしてTくんがいる時にまたやってみることにして、次の「こども」スペシャルに入る。


2、こどもを感じてみる

「自分らしい子育てとはなにかを考えたい」と言っていた参加者のAさんから「今の親はあたまでっかち、頭で考えすぎてしまうので、まずこどもを感じることが大切」という話が前回でていた。
なので今日は、こどもをよく観察し、マネてみることによって、「こどもを感じてみる」体験をする。
まずよく観察することで気づいたことをひとりひとり言ってもらい、それをふまえてさらに観察する。
そして次はいよいよマネになるが、これはとても難しい。この課題をやるにあたって、自分でもうちでこどものマネをやってみようとしたが、大人のマネの比じゃないくらい難しい。
なので、まずは「体の動き」をやってみる。こどもの体がじっとしているということはほとんどない。いつもたえず動いている。じっとしているようにみえる時だって、いつもどこかが動いている。
こどもたちの中でも、発達障害があるかもしれないと言われたという2歳のSちゃんをモデルにしぼり、全員で動きをマネしてみる。また気づいたことを全員で話す。次に表情もマネしてみる。たくさんの大人たちがみんなで自分をみてマネしてるとわかったSちゃんは大喜び。ほんとうに嬉しそうに体を動かしはしゃいでいる。

ここでマネしてみてわかったこと、気づいたことには、こどものようになれない自分、大人とこどもとの違いがあった。
すぐに変化する意識の在りよう、多幸感、きりのなさ、気持ちと体・表情の直結、母のもとでの安心感。
「こどもに向き合って同じことしようとしてる時が一番こどもの感覚に近いかなと感じる」という意見もあった。たしかに、わたしもこどもと一緒に撮った写真にうつった自分の表情にびっくりしたことがあった。こどもと一緒になんのくったくもなく笑っている写真だったが、自分でも自分のそんな表情の写真は見たことがなかった。こどもと笑う時の自分にこんなに手放しになれるんだなと驚いたりはしてたけど、それが本当に写真にもうつっていたのでやっぱりそうなんだと思った。
そして、こどもの表情をマネた時に一瞬感じたのはやっぱりものすごい幸福感だった。Kはうちに来て、本当に、こんなに幸せなんだ、と初めて気づき、涙がでそうになった。

こどものワークショップをするようになって、こどもと接した時、こどもと俳優の共通点を直感したことがある。俳優はこどもと相性がよく、こどもの心をつかむのがうまいとよく感じるし、子育てを楽しむタイプが多いと思う。
共通点はなにかと言えば、時間の感覚である。だいたい小学5、6年生くらいまでのこどもは「今」をすべてとする時間の感覚の中に生きていて、「過去」や「未来」の概念が薄い。で、俳優は大人だけど、舞台の上で、やはり「今」をすべてとして生きる時間を職業的に持っているからだ。こういう時間を持てる大人は俳優以外にそうはいないんじゃないかと思う。

今回みんなのモデルになってくれたSちゃんは「発達障害かもしれない」と言われたらしい。
こどもがそうかもしれないと言われた親はみんな心配になるだろうし、大人たちもいろんなことを言うかもしれない。でも今日のSちゃんは多くの幸せな気持ちを大人に与えてくれた。当事者のSちゃん抜きにこういう問題を語るのは危険だし難しい。

次回vol.3は来週29日(火)である。火曜日の方が来られる人が多いみたいで、次はけっこう参加者が多い回になる。さて来週はなにをしようかな?明日もまた考えてみようと思う。






「子育てを考える」ワークショップ始まりました/世田谷

今週火曜から世田谷パブリック・シアターでの「子育てを考える」ワークショップが始まり、木曜は円の研究所の実習があり、また土曜は世田谷子育ての2回目があり、今週はとても忙しく、緊張感も続くがとても楽しい。

「子育てを考える」ワークショップ、第1回目は、参加者の方々への質問「子育て」のなにについて考えたいか?から始め、2時間すべて使ってお一人お一人に話をしていただいた。ここまでは北九州の勉強会と同じだけど、北九州とは地域も公募の仕方も違うせいか、ずいぶん市民運動の盛んな「世田谷らしい」雰囲気になった。ご自身でも、「子育て」に関して社会を変えるための活動をされている方が多かった。
参加は一回でもOKなのだが、この初日はとくに参加が集中して、スタッフまで含めると全部で20人以上の出席者となる。40前後の女性が目立つが、男性もちらほら、60代とお子様にもお一人ずつ来ていただいてとても嬉しい。
実はこのワークショップは、最後の6回目に発表会を企画していたのだが、「発表会あり」と聞くとまたプレッシャーで参加を見送る人がでたらいやだねということで、学芸スタッフと相談して発表会のことは公募の段階ではふせておいたせいか、6回目の出席者が一番少ないという困った状況にある。。。

一回でもOKと宣伝したのは、参加者が家族をつれてきてくれたりするのを期待していたり、子連れ参加は毎回確実というのは難しい(こどもがとつぜん熱をだしたり体調が悪くなったり)だろうことを考慮した上でのことだったのだが、参加者本人が一回とか数回しか来ないみたいなケースが多くなってしまった。公募の仕方は難しいなあ。。。
しかし学芸スタッフはあまり心配してないみたいで、慣れたものだからいろいろ勘も働くのだろうから、お船に乗せてもらっておけばいいかなとも思う。

なぜ発表会を企画したかと言えば、これまでのワークショップで発表会が最後にあったものはうまくいく可能性が高かったからだ。発表するということで緊張感が生まれ、成長、変化の度合いが大きくなる。
発表会を観にくるのは参加者の家族や親しい友人といった人々で、地域の「学芸会」的なものになるのだが、それはいつもちょっと感動的な光景だ。表現を職業とする俳優とは違い、日頃自分を表現することなく生きてきた方々のリアルな実人生の感覚をともなう表現には、ヘタな演劇よりもよっぽど見る価値のある体験やたくさんつまった思いがある。それをともに人生の時間を過ごしてきた親類縁者が観るのだ。それはよく知る親しい人の見たことのない一面かもしれない。こうした「表現」という日常とは違う方法でのコミュニケーションでの体験や思いの共有によって、その関係はどう変わるのか。それは発表会の後のみなさんの顔を見ればそれはよくわかる。
参加者どうしも年齢や立場を越えて、初めのもじもじぎくしゃくをのりこえ、同じ舞台を作る仲間として手を組み、協力して表現を作りあげていく様子はほんとうに頼もしく、やっぱり演劇ってすごいなーといつも思ってしまう。

これが、いわゆる演劇作品の上演では味わえない演劇の面白さだ。通常の作品上演では、観客はいったいどんな人々なのか顔が見えず、観た人々がどう感じて、なにか人生にプラスになる変化があったのかどうか、上演の価値はあったのかどうか、それがわかりにくく、のれんに腕押しな感じを受けることがよくある。
それにくらべてワークショップは「顔が見える」ので、誰がどんなふうに成長・変化していったかがよくわかる。一人の人の変化、は本当にすごいことだ。一人が変わればそのまわりにも影響は波及する。かなり草の根的だけど、とても価値のあることだと思う。

まあそれで、今回もみなさんに話していただいて、でてきた素材をもとに子育てについていろいろな角度から表現を試していって、それをつなげて最後に発表したいと思っている。
今回もとても興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。

育児分担の不平等、男は子育てにどう関われるのか、「子育て」以前の夫婦間の問題、ママ友とうまくつきあえない、自分らしい子育てとは?、若い世代は経済的に結婚や子どもを持つことが難しい、こどもってなに?、結婚後の地域や親族との摩擦に対する不安、仕事と子育ての両立、個人としてのわたしを取り戻したい母、「育児ノイローゼ」など苦しむ母親たちを救うには、女性の妊娠を迷惑がる社会を変えたい、虐待、しつけなのかストレス発散なのか?、unhappyな子育てをしている人にどう関われるのか、日本人がなくしてしまったバイタリティー、育児しながら働く女性に対する社会の理解の低さ、学校や地域の機能不全、親になることへの不安、地域の中で育った感覚の欠如などなど

北九州もだったけど、劇場の学芸他スタッフもみんな参加者の一人として同じように参加してくれるのは本当にいいと思う。「上から目線」で品定めしたり自分を隠すことの許される特別な誰か、という感じではなく、立場は違っても問題を共有する同じ一人の個人としてそこにいてくれてるのを感じるからだ。
参加者とスタッフの違いはスタッフは職業としてワークショップに関わっていることだ。職業上恥をかきたくない気持ちは誰にでもあると思うけど、それを恥も覚悟の上で?かはわからないが自分をさらして参加してくれるスタッフは、本当に勇気があると思うし、その自信と謙虚さは人としてとても魅力的だ。
「上から目線」なんてひさしぶりに使った言葉だけど、研究生と接していると、人の態度に敏感な彼らから「あーこんな言葉あったなー」とか思い出させてもらったりこちらも学ぶことがあるのでとても面白い。

明日土曜日は参加が薄い回だけど、円の研究生が3人参加してくれたり、うちも家族全員参加でこどもも連れていくので、「こども」と「若い世代の問題」をテーマに表現を探ってみたいと思う。


円の研究所では、「ハムレット」モノローグ、to be or not to beの現代バージョンをやっているが、これがまたとても面白い。
「この不況下で、少しでも安定した職業につくべきか、それとも安定はないが自分の行きたい道に進むべきか」とか、「アパートの隣の部屋がうるさい、管理会社に言うべきか否か」とか、「飲み会に行くべきか否か」とか、「言うべきか否か」とか、東京らしかったり、他者の反応にやたら敏感なこの世代らしいテーマもたくさんでてきた。
実習で使っているのは福田恒存訳だが、これをそのままやった研究生の発表を聞いていて、このセリフが今の日本でリアルに語られるとしたら、T電のもと社長とか、そんな感じかしらと思えてきた。
「ハムレット」を古典作品鑑賞用上演ではなく、現代に生きる作品として上演するには、それくらいのことじゃないと成立させるのは難しいだろうな。
あるいは朝鮮半島の北のあととりのお話とか?







ゆとり世代と子育て

へんなお天気が続いた連休も終わって、旦那は会社へ、こどもは保育園へ行ったので、わたしも仕事の準備を始める。
一昨日は、昨日被害がひどかった栃木の益子にいた。一日ずれたら巻き込まれただろうと思うけど、一日の差で被害を受けなかった。つくばあたりも竜巻でひどいことになったけど、今自分はここで屋根のある家にいる。でもそれがなんだかほんとに偶然のように感じられる。それくらい、いつどこでなにが起こっても不思議じゃない感覚が日常的になってるんだろう。
それでも仕事も生活も続くので、今日も考えることから始める。

時々、意外な人からブログ読みましたとか読んでますとか言われることがあり、離れて普段連絡を取り合うこともなくても遠くで気にかけていただいてることを知り、本当にありがたいと思う。
このブログは、自分の考えをまとめるのに使ったり、一緒に仕事をするスタッフの方々と進行を共有したりすることに使っているので、とくに自分の考えをまとめるために書いているものは、子育て中の限られた時間でほとんどメモがわりのように急いで書いていて、ちゃんとした文章にしようとしてもなってなかったり、間違いも多かったり、言葉の選び方も雑だったりで、その点は申し訳なく思う。
しかしこの「メモ」も公開にしておくことが、母子カプセルになりがちな子育ての中で自分を社会につなげておく手段になるので、あえて公開して恥もさらすことにしている。

さて木曜は円の研究所の実習、で来週からはいよいよ世田谷の「子育てを考える」ワークショップが始まる。
研究所は、今週来週、アシスタントのノムさんからの課題、「ハムレット・モノローグ」をやることになっている。ハムレットのモノローグを自分に置き換えてそれぞれテキストを自分でアレンジして一人ずつ演じるというものである。どんなto be or not to beがでてくるんだろうか。

連休中、遊び疲れてこどものお昼寝が長引いた日があり、そこで旦那が録画していたNHKの「現代うつ」のドキュメンタリーを見せてくれた。ゆっくりテレビを見るなんてことはほとんどできないので、ほんとにラッキーだったし、見てよかった。
「現代うつ」は「新型うつ」とも言われ、今20代、30代が多く発症している病気で、症状はうつ的なんだけど、場合によっては遊びに行けちゃったりするので、ただの怠けや甘えと言われてしまうこともあるらしいのだが、やっぱりうつの一種だということ。それから被害者意識が強く、なにか問題がおこった時、常に人のせいにするという特徴もあるらしい。心が折れやすいのだ。
まさに前回とりあげたロスジェネゆとり世代の問題である。
ドキュメントを見ていると、この世代がこんな病を発症するのはとてもうなづけた。
番組の中でもこの世代の自己肯定感の低さが語られていたが、その原因として、「新学力観」が教育現場に導入されたこともあがっていた。それは、成績を、テストの点数ではなく、やる気や態度によってつけるというもので、いくらテストの成績がよくても「5」に該当しても、態度にやる気が見られなければ評価は「4」に下がってしまうらしい。これは初めて知ったので驚いた。それで、こどもたちはたえずまわりの視線を気にするようになり、常に「演じること」を強いられるようになったということだった。

番組で紹介された「新型うつ」対策としては、カウンセリングや企業の取り組みなどがあった。
企業では、うつになってしまった社員に、ひとりひとり得意な仕事を用意して、それぞれにあった仕事の仕方を提案し、社員の側は、仕事を着実にこなし評価をあげることで自信を取り戻し、効果をあげているということだった。賢い企業があったものだと思う。だいたいは「最近の若者は甘えてる」ということで自己責任論となり、対応する余裕のない企業が圧倒的だろうけど、だいたい自己責任論で切ったところで、そういう若者が多数ならば、クビをすげかえすげかえしても結局は人材がいないということで徒労に終わるだけじゃないだろうか?あまり生産的な対応とは思えない。
わたしは演劇を教育現場に取り入れることを提唱したいところだが。
というか会社員のみなさんにもぜひ演劇をおすすめしたいところだ。
うちの旦那もサラリーマンだけど、演劇は見に誘われてもあまり行きたくないけど、やろうと誘われたらやる人はけっこういるかもと言っている。

自己肯定感の低さはほんとうにどこから来ているのだろうか。
自分の価値を他者にゆだねてしまうのだ。そして自分の中はからっぽ?
とにかくこの問題はどうにかしなければならない。大人はなにか手をうたなければならないと思う。
わたしは自分のこどもにもそんな不幸なこども時代を過ごしてほしくない。

競争をさけることで、競争に負ける子が傷つくことはなくなるかもしれないが、傷つく機会を奪われた子どもは負の免疫のつけずに成長し、突出した能力を持つ子はその後の人生を支えてくれる成功体験を奪われたまま成長する。
過度な競争の後の過度な優しさ。
数年前、周年行事をひかえた都内の小学校で長期のワークショップをした時、どんな大人になりたいかと子どもたちに聞いてみると、「優しい人」というのがダントツ一位で、その他はとても少なかった。
思い返せばあの時もふと何かおかしい、と感じていたのだ。
30年前の子どもたちの答えは「正直な人」「強い人」「面白い人」、いろんな価値が多数ならんでいた。娯楽は多様化したのに、価値観はむしろ反対にやせ細っている。

核家族化、過保護、過干渉、放任、生活の便利さの向上、大人の管理意識の強まり、不況。
社会のひずみは若い世代やこどもにしわよせる。
自分のこどもを見ていても思う。なんでもスイッチひとつでできあがる便利な生活の中で、どうやって忍耐力を育てたらいいのか、どうやって体があることや生の実感を得る体験をさせられるのか。
まわりを見ても小さなこどものいる家はいつもバタバタで、日々余裕なく暮らしてるけど、ふと時々こんな問題を思い出して頭を悩ませる。

研究所ではゆとり世代と接していると、時々サラ・ケインの「4.48サイコシス」や、テア・ドルンの「BOMB SONG」の一節が頭をよぎることがある。同じ叫びを聞いているように感じることがあるのだ。後半の実習はどうしようかと考えていたが、これもちょっと持っていってみようと思う。


来週から始まる子育てを考えるワークショップでは、まず北九州の勉強会と同じように、参加者の方々の「子育て」に対する印象や思いを共有することから始めようと思う。で、でてきた素材を表現にしてみる。

わたしのワークショップでは、演劇ワークショップと言っても、ほとんどの場合、誰か別の人に「なりきって(スゴイ誤解!!と思うんだけど。。)」みたりするいわゆる「演技」みたいなことはほとんどしない。
誰にでもできるような演劇「的」な手法で表現を試していく。
たとえば、ただ本を声に出して読むとか、人形を使って人形劇みたいなことをするとか(←これはほとんどの人がこどもの頃にやったことあると思う)、ごっこ遊びみたいなことをするとか、ビデオカメラもって取材してくるとか、絵を描いてみるとか、思い出を話すとか、そしてたまには演技みたいなこともする。
とりあえず誰でも自分の得意なところでできることをして、気軽に楽しんで参加してもらいたいと思っている。
でも「演劇ワークショップ」というと、みんな演技をしなきゃいけないと思って、参加を見送る人もいるのでそれが悩みの種である。

世田谷の次の子育てワークショップの企画も、広報を考えなくちゃなのよ。

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