いよいよ今週で、世田谷パブリックシアター「子育てを考える」ワークショップも円研究生前期実習も終わりをむかえる。
双方わたしにとっては初めての仕事で、試行錯誤や体調不良もあったけど、いろんなことを知ったり考えたり、とても面白く充実した日々だった。この貴重な時間を一緒に過ごしたみなさんに感謝したい。
円の研究所では、今週木曜のゲネを経て、金曜にはこれまでの成果発表会が開かれる。
前期実習の後半は自分たちのやりたい戯曲などを持ち寄ったが、やはり初心者にはいわゆる「演技」は難しく、われわれ講師が小返しして細かく丁寧に指導している時間もないので、ほとんどの研究生は前半の課題の「ハムレット・モノローグ」を発表することになった。
俳優にとっても、自分以外の人間を演じることはそうたやすくできることではない。
「役」というものは、たとえば美術家が絵を描く過程のように、音楽家がある曲を自分のものにしていく過程のように、ゆっくりと俳優の中で時間をかけて熟成されていくものだ。
ある台本を、表面的な印象だけでそれらしく表現してみても、ただそれらしいというだけで、リアリティにはほど遠いステレオタイプになってしまう。
そういう表現がちまたにあふれているおかげで、演劇は「お芝居くさい」と敬遠されるものになってしまうのだ。
前期は、他者を演じるよりはまず、自分という素材を使って嘘のない表現をさぐり、そのリアリティを実感してもらうことから授業を始めた。しかしあくまでも「表現」なので、「自分」はその素材にすぎず、そこには「誇張」が入ったりして、彼らは「自分」という役を演じることになっていた。
ここでしっかりリアリティのある表現、信憑性のある表現をつかんでおけば、次に他者の役を演じた時に、それがいかにステレオタイプの中身のない、あるいはお芝居くさい表現になってしまうかがよくわかると思う。それに気づくことから「役作り」の作業は始まる。
みんなこの3ヶ月、しっかり自分という素材に向き合ってきたと思う。
これはたいへんな作業であったことには間違いない。
しかし俳優を職業に(なるかわからないが)選ぶなら、この先の道も本当に険しい。
さらにこの多くの「ゆとり世代」には、大きなハンディがある。
その上の世代とくらべて、あきらかに想像力や忍耐力、発想力、好奇心が弱いのだ。
さらにとにかく傷つきやすい。ちょっとだめだししたくらいですぐに「キズついたーキズついたー」とうったえる。。。「自分はこんなに人に気を使っているのに」と、そうしない人に反感を感じるのかもしれない。
この世代を境に「学生の質が変わった」と多くの教師たちが言っていた。
これはまず彼らが「KY」やみんなに気をつかって合わせることに過剰なエネルギーと時間を使っているからに他ならない。上の世代は、自分の持つ時間とエネルギーをもっと他のことに使ってきた。
人間が持つ時間とエネルギーは限られていて、それをどこに向けどこに使うかが問題なのだ。
以前ニュースで見た。こどもの成績と家庭環境に関する調査だった。
成績のいい子はのきなみ家族間にほとんど問題のない家庭で育っていたが、かたや成績のよくない多くの子は家庭的になにかしら問題をかかえていたという。
たとえばお父さんとお母さんが不仲で、始終そのことを心配し気をとられていたら、勉強に身など入るわけがない。心が乱されずにすむ、たとえ乱されても必要以上にそこに固執せず自分の中で折り合いをつけられる、という条件が整って初めてなにかを学ぶことに時間とエネルギーを向けることが可能になる。
これと同じことだ。
ゆとり世代の多くは、あまりにも人を気にすることにエネルギーと時間を使いすぎてきた。
そんなエネルギーと時間を、もっとそれぞれが熱中できることや、才能をのばすことに使ってこられたら、今の彼らはどれだけ違っていただろうと思うと悔しくなる。彼らが育つ中、こんな問題に気づかず、あるいは気づいても放置してきたまわりの大人たちはこの事実をどう思うんだろうか。
ただひとつの望みは、俳優という職業はマイナスの経験をプラスに変えることができるということだ。
しかしそれにしても俳優には、忍耐力、発想力、想像力、好奇心はかかせない。
足りないならつけていくしかない。そんなハンディを彼らは最初から背負っている。
社会にでた彼らを、上の世代が「無個性」だの「使えねー」だのと一言で片付けるのは間違いだ。
社会学者の古市くんはゆとり世代の多くが社会にでて「新型うつ」にかかるこの状況を、かたちをかえた「ゆとり世代のデモ」だと言うが、わたしも同感である。
多くの大人はこの問題を放置してきた社会人として、まず彼らの現状を知り、その克服につきあう責任があるんじゃないだろうか。
後期はまた講師がかわり、今週の発表会で彼らとはお別れになる。
そして一年後には彼らの半分以上が研究所を卒業し、また社会の中にそれぞれの道を見つけていかなければならない。
でもこの3ヶ月、自分とたえず向き合い、矛盾をかかえて考え続け、勇気をだし、恥をさらして人前に立ち続けた、この苦しい授業を耐え抜いたことには、みんな自信を持っていいと思う。
自分は本当はなにを怖れ、本当はなにを望んでいるのか、自分としっかり向き合い続けることは、他者とよりよく生きる力につながり、「自分」をなくせば他者に振り回されっぱなしの人生になってしまう。
人にどう見られるかよりも、まずは自分がなにをどうしたいのかが先だ。
「ただしい人生」がないのと同じく、「ただしい演劇」もない。
演劇には答えがないとはそういうことだ。
みんなの成長はほんとうに劇的で、とても感動的でした。
失敗を繰り返しても、がんばれば壁は乗り越えられますね。
ここでの経験は、みんなをきっと支えてくれると思います。
短い時間でしたが、わたしもたくさんのことをおしえてもらいました。たくさん文句言ってごめんなさい。どうもありがとう。
双方わたしにとっては初めての仕事で、試行錯誤や体調不良もあったけど、いろんなことを知ったり考えたり、とても面白く充実した日々だった。この貴重な時間を一緒に過ごしたみなさんに感謝したい。
円の研究所では、今週木曜のゲネを経て、金曜にはこれまでの成果発表会が開かれる。
前期実習の後半は自分たちのやりたい戯曲などを持ち寄ったが、やはり初心者にはいわゆる「演技」は難しく、われわれ講師が小返しして細かく丁寧に指導している時間もないので、ほとんどの研究生は前半の課題の「ハムレット・モノローグ」を発表することになった。
俳優にとっても、自分以外の人間を演じることはそうたやすくできることではない。
「役」というものは、たとえば美術家が絵を描く過程のように、音楽家がある曲を自分のものにしていく過程のように、ゆっくりと俳優の中で時間をかけて熟成されていくものだ。
ある台本を、表面的な印象だけでそれらしく表現してみても、ただそれらしいというだけで、リアリティにはほど遠いステレオタイプになってしまう。
そういう表現がちまたにあふれているおかげで、演劇は「お芝居くさい」と敬遠されるものになってしまうのだ。
前期は、他者を演じるよりはまず、自分という素材を使って嘘のない表現をさぐり、そのリアリティを実感してもらうことから授業を始めた。しかしあくまでも「表現」なので、「自分」はその素材にすぎず、そこには「誇張」が入ったりして、彼らは「自分」という役を演じることになっていた。
ここでしっかりリアリティのある表現、信憑性のある表現をつかんでおけば、次に他者の役を演じた時に、それがいかにステレオタイプの中身のない、あるいはお芝居くさい表現になってしまうかがよくわかると思う。それに気づくことから「役作り」の作業は始まる。
みんなこの3ヶ月、しっかり自分という素材に向き合ってきたと思う。
これはたいへんな作業であったことには間違いない。
しかし俳優を職業に(なるかわからないが)選ぶなら、この先の道も本当に険しい。
さらにこの多くの「ゆとり世代」には、大きなハンディがある。
その上の世代とくらべて、あきらかに想像力や忍耐力、発想力、好奇心が弱いのだ。
さらにとにかく傷つきやすい。ちょっとだめだししたくらいですぐに「キズついたーキズついたー」とうったえる。。。「自分はこんなに人に気を使っているのに」と、そうしない人に反感を感じるのかもしれない。
この世代を境に「学生の質が変わった」と多くの教師たちが言っていた。
これはまず彼らが「KY」やみんなに気をつかって合わせることに過剰なエネルギーと時間を使っているからに他ならない。上の世代は、自分の持つ時間とエネルギーをもっと他のことに使ってきた。
人間が持つ時間とエネルギーは限られていて、それをどこに向けどこに使うかが問題なのだ。
以前ニュースで見た。こどもの成績と家庭環境に関する調査だった。
成績のいい子はのきなみ家族間にほとんど問題のない家庭で育っていたが、かたや成績のよくない多くの子は家庭的になにかしら問題をかかえていたという。
たとえばお父さんとお母さんが不仲で、始終そのことを心配し気をとられていたら、勉強に身など入るわけがない。心が乱されずにすむ、たとえ乱されても必要以上にそこに固執せず自分の中で折り合いをつけられる、という条件が整って初めてなにかを学ぶことに時間とエネルギーを向けることが可能になる。
これと同じことだ。
ゆとり世代の多くは、あまりにも人を気にすることにエネルギーと時間を使いすぎてきた。
そんなエネルギーと時間を、もっとそれぞれが熱中できることや、才能をのばすことに使ってこられたら、今の彼らはどれだけ違っていただろうと思うと悔しくなる。彼らが育つ中、こんな問題に気づかず、あるいは気づいても放置してきたまわりの大人たちはこの事実をどう思うんだろうか。
ただひとつの望みは、俳優という職業はマイナスの経験をプラスに変えることができるということだ。
しかしそれにしても俳優には、忍耐力、発想力、想像力、好奇心はかかせない。
足りないならつけていくしかない。そんなハンディを彼らは最初から背負っている。
社会にでた彼らを、上の世代が「無個性」だの「使えねー」だのと一言で片付けるのは間違いだ。
社会学者の古市くんはゆとり世代の多くが社会にでて「新型うつ」にかかるこの状況を、かたちをかえた「ゆとり世代のデモ」だと言うが、わたしも同感である。
多くの大人はこの問題を放置してきた社会人として、まず彼らの現状を知り、その克服につきあう責任があるんじゃないだろうか。
後期はまた講師がかわり、今週の発表会で彼らとはお別れになる。
そして一年後には彼らの半分以上が研究所を卒業し、また社会の中にそれぞれの道を見つけていかなければならない。
でもこの3ヶ月、自分とたえず向き合い、矛盾をかかえて考え続け、勇気をだし、恥をさらして人前に立ち続けた、この苦しい授業を耐え抜いたことには、みんな自信を持っていいと思う。
自分は本当はなにを怖れ、本当はなにを望んでいるのか、自分としっかり向き合い続けることは、他者とよりよく生きる力につながり、「自分」をなくせば他者に振り回されっぱなしの人生になってしまう。
人にどう見られるかよりも、まずは自分がなにをどうしたいのかが先だ。
「ただしい人生」がないのと同じく、「ただしい演劇」もない。
演劇には答えがないとはそういうことだ。
みんなの成長はほんとうに劇的で、とても感動的でした。
失敗を繰り返しても、がんばれば壁は乗り越えられますね。
ここでの経験は、みんなをきっと支えてくれると思います。
短い時間でしたが、わたしもたくさんのことをおしえてもらいました。たくさん文句言ってごめんなさい。どうもありがとう。