阿部初美のブログ

演劇の演出家です。

2012年06月

円の授業おしまい

いよいよ今週で、世田谷パブリックシアター「子育てを考える」ワークショップも円研究生前期実習も終わりをむかえる。
双方わたしにとっては初めての仕事で、試行錯誤や体調不良もあったけど、いろんなことを知ったり考えたり、とても面白く充実した日々だった。この貴重な時間を一緒に過ごしたみなさんに感謝したい。

円の研究所では、今週木曜のゲネを経て、金曜にはこれまでの成果発表会が開かれる。
前期実習の後半は自分たちのやりたい戯曲などを持ち寄ったが、やはり初心者にはいわゆる「演技」は難しく、われわれ講師が小返しして細かく丁寧に指導している時間もないので、ほとんどの研究生は前半の課題の「ハムレット・モノローグ」を発表することになった。

俳優にとっても、自分以外の人間を演じることはそうたやすくできることではない。
「役」というものは、たとえば美術家が絵を描く過程のように、音楽家がある曲を自分のものにしていく過程のように、ゆっくりと俳優の中で時間をかけて熟成されていくものだ。
ある台本を、表面的な印象だけでそれらしく表現してみても、ただそれらしいというだけで、リアリティにはほど遠いステレオタイプになってしまう。
そういう表現がちまたにあふれているおかげで、演劇は「お芝居くさい」と敬遠されるものになってしまうのだ。

前期は、他者を演じるよりはまず、自分という素材を使って嘘のない表現をさぐり、そのリアリティを実感してもらうことから授業を始めた。しかしあくまでも「表現」なので、「自分」はその素材にすぎず、そこには「誇張」が入ったりして、彼らは「自分」という役を演じることになっていた。
ここでしっかりリアリティのある表現、信憑性のある表現をつかんでおけば、次に他者の役を演じた時に、それがいかにステレオタイプの中身のない、あるいはお芝居くさい表現になってしまうかがよくわかると思う。それに気づくことから「役作り」の作業は始まる。
みんなこの3ヶ月、しっかり自分という素材に向き合ってきたと思う。
これはたいへんな作業であったことには間違いない。
しかし俳優を職業に(なるかわからないが)選ぶなら、この先の道も本当に険しい。

さらにこの多くの「ゆとり世代」には、大きなハンディがある。
その上の世代とくらべて、あきらかに想像力や忍耐力、発想力、好奇心が弱いのだ。
さらにとにかく傷つきやすい。ちょっとだめだししたくらいですぐに「キズついたーキズついたー」とうったえる。。。「自分はこんなに人に気を使っているのに」と、そうしない人に反感を感じるのかもしれない。
この世代を境に「学生の質が変わった」と多くの教師たちが言っていた。
これはまず彼らが「KY」やみんなに気をつかって合わせることに過剰なエネルギーと時間を使っているからに他ならない。上の世代は、自分の持つ時間とエネルギーをもっと他のことに使ってきた。
人間が持つ時間とエネルギーは限られていて、それをどこに向けどこに使うかが問題なのだ。

以前ニュースで見た。こどもの成績と家庭環境に関する調査だった。
成績のいい子はのきなみ家族間にほとんど問題のない家庭で育っていたが、かたや成績のよくない多くの子は家庭的になにかしら問題をかかえていたという。
たとえばお父さんとお母さんが不仲で、始終そのことを心配し気をとられていたら、勉強に身など入るわけがない。心が乱されずにすむ、たとえ乱されても必要以上にそこに固執せず自分の中で折り合いをつけられる、という条件が整って初めてなにかを学ぶことに時間とエネルギーを向けることが可能になる。
これと同じことだ。

ゆとり世代の多くは、あまりにも人を気にすることにエネルギーと時間を使いすぎてきた。
そんなエネルギーと時間を、もっとそれぞれが熱中できることや、才能をのばすことに使ってこられたら、今の彼らはどれだけ違っていただろうと思うと悔しくなる。彼らが育つ中、こんな問題に気づかず、あるいは気づいても放置してきたまわりの大人たちはこの事実をどう思うんだろうか。

ただひとつの望みは、俳優という職業はマイナスの経験をプラスに変えることができるということだ。
しかしそれにしても俳優には、忍耐力、発想力、想像力、好奇心はかかせない。
足りないならつけていくしかない。そんなハンディを彼らは最初から背負っている。

社会にでた彼らを、上の世代が「無個性」だの「使えねー」だのと一言で片付けるのは間違いだ。
社会学者の古市くんはゆとり世代の多くが社会にでて「新型うつ」にかかるこの状況を、かたちをかえた「ゆとり世代のデモ」だと言うが、わたしも同感である。
多くの大人はこの問題を放置してきた社会人として、まず彼らの現状を知り、その克服につきあう責任があるんじゃないだろうか。

後期はまた講師がかわり、今週の発表会で彼らとはお別れになる。
そして一年後には彼らの半分以上が研究所を卒業し、また社会の中にそれぞれの道を見つけていかなければならない。
でもこの3ヶ月、自分とたえず向き合い、矛盾をかかえて考え続け、勇気をだし、恥をさらして人前に立ち続けた、この苦しい授業を耐え抜いたことには、みんな自信を持っていいと思う。
自分は本当はなにを怖れ、本当はなにを望んでいるのか、自分としっかり向き合い続けることは、他者とよりよく生きる力につながり、「自分」をなくせば他者に振り回されっぱなしの人生になってしまう。
人にどう見られるかよりも、まずは自分がなにをどうしたいのかが先だ。
「ただしい人生」がないのと同じく、「ただしい演劇」もない。
演劇には答えがないとはそういうことだ。

みんなの成長はほんとうに劇的で、とても感動的でした。
失敗を繰り返しても、がんばれば壁は乗り越えられますね。
ここでの経験は、みんなをきっと支えてくれると思います。
短い時間でしたが、わたしもたくさんのことをおしえてもらいました。たくさん文句言ってごめんなさい。どうもありがとう。






「子育てを考える」vol.4-ママ友-/世田谷

世田谷パブリックシアター「子育てを考える」ワークショップも4回目が終わった。
回を重ねるごとに面白くなってきている。
まだ参加者は増え続けているので、こういう企画は潜在的なニーズがかなりあるんじゃないかという気がしている。

体調は整体通いで回復傾向にあり、先週は円の実習の時もきつかったわりにひさしぶりに発作がでなかった。かなり姿勢を気をつけるようになったが、猫背を直すように意識しただけで背中のしびれや痛みがなくなったので、ふだん無意識にしている姿勢がいかに大事かということがよくわかった。

子育てWSでは、毎回新たな参加者の方々に「子育て」に関して「難しい点」「わからない点」「一番感心の強い点」などをおひとりおひとりにお話いただき、それから簡単なゲームをして、それから本題に入っているので、本題に入るまでに30分以上かかっている。4回目はやはり2時間枠で予定していたことの半分しかできなかったが、終了時間がすぎても終わず、参加者のみなさんもその後用事があった2人以外は帰らず、1時間オーバーしてやっと終了、実質3時間のワークショップになってしまった。
しかしやはり開始時間を前倒しにして9時30分からにするとやはりそれだとこられないという声があった。今は10時開始で12時終了だけど、みなさんお昼も食べずに13時までよくがんばっている。
この回からランチ会が始まったが、こどもが幼稚園や小学校から帰ってくる14時前に帰宅しなければならない人は参加できないし、帰ってから自分もお昼を食べなきゃならないし、時間のやりくりがけっこうたいへんなのではないかと思うが、それでも終了時間が過ぎても帰らずに集中して話を続けたり、「毎回楽しい」と言ってくださる方もいるので、やっぱりいかにこういう「場」がないかということがわかる。
わたし自身も、毎回どうしたら核心にせまる面白い表現がひきだせるか、しかも誰でもできそうな方法で、などアイデアを考えるのは苦しい作業でもあるが、子育て中の悩みを持つ親としてそれを共有できる場になっているので、現場は毎回本当に楽しい。

さて4回目のテーマは「ママ友」である。
「ママ友と話を合わせられなくて」という意見はけっこう多くでていた。これは当たり前のことだと思う。こどもがいるという共通点だけで、今までまったく接点のなかった者同士が、そんなになんでも話せるような仲になるとか、いつも楽しく過ごせるとか、そんなことはありえないだろう。

今回は、3つに分かれてグループでの作業にした。まず「ママ友」のイメージを8つ全員に書き出してもらい、そこででたキーワードをもとに、それぞれのグループで、ママ友に関する人形劇の寸劇を作ってもらう。それを1グループ5分程度で発表しあい、それについてみんなで話し合う、という流れだった。

3つのグループとも、とても面白い発表になった。

まずAグループは、参加者のお子さんAちゃんがみんなにてるてるぼうずを作ってくれたので、てるてるぼうずたちの人形劇になった。
ママ友たちの集まりで、一人が「来週ランチ会しようよ!」と誘うところから始まる。みんなが「いいよ」と答えると、誘ったママが一人で店も時間も決めてしまう。みんなはそれにあまり同意していなかったが、強引なママに押し切られ「いいよ」となってしまう。が、それぞれ分かれた後に、「やっぱ無理でしょ」と思った一人が謀反をおこし、ほかのママ友たちに連絡して、言い出しっぺのママ抜きで別の店でのランチ会を企画する。当日、みんなに断られた言い出しっぺのママがある店の前を通りかかると、自分以外のママ友たちがランチしている姿を見つけ、がーんとなる、というお話。

2番目のBグループは、近所でレストランを経営している、今回が初参加の妊婦さんEさんのお店が舞台。Eさんのお店は授乳室オムツ室がありベビーカーでも入りやすいように設計されているので、よく子連れママたちがランチ会をしていて、店にいると、楽しんでるママ、苦しんでるママ、いろんなママの姿をみるそうで、そこでの風景を表現したものだった。
3人のママ友が集まってランチ、そのうちの二人はお互いのこどもの服や持ち物についてほめあっている。もう一人が、食べ物の放射能汚染やこどもの食事についての話をもちかけると、二人は「んーんー」を連発して、ほとんどリアクションしない。そのうちの一人のパパはこどもを抱っこしてごはんを食べさせたり、静かに世話をし、ほとんどママたちの話には入らないという風景が演じられた。

3番目のCグループは、またママ友の集い。みんな自分や自分の家族のことばかり話していて、お互いの話はほとんど聞いていない。相手が話している時は「んーんーたいへんねー」とか適当にあいずちをうつのみ。一人がトイレに行くと、急に「あの人さあー」といなくなったママ友の悪口が始まり、戻ってくると知らん顔してまたそれぞれ自分の話を始める。誰かがトイレに立つたびに、その人の悪口が始まり、その人が戻ると知らん顔、というパターンが繰り返される。そのうちの一人は話も聞いてもらえず、ずっとみんなに無視し続けられても、ずっとその場をはなれずにいた。
この役をやったMさんは、実際、地域で同じ目にあった経験があり、それは20年も前からの話だということだったが、それが悔しくて、わたしが演出家だということで、自分の体験を演劇作品にしてほしいという思いからこの回初めて参加された方だった。20年もそのことを思い続けるというのは本当にすごいエネルギーだと思う。こういう経験を持つ人が、自らこういうワークショップに参加してくることはあまりないので、来てもらって本当によかったと思う。

以上のような3つのストーリーができあがった。Aグループは、ボス的なママ友にみんなが謀反を起こすというお話だったが、これはある小学校にワークショップにいった時に聞いた実話と同じだった。
Aグループの劇をみると、親たちがしているんだから、同じことを子どもがしてもおかしくないよね、と思ってしまう。そう言うと、円の研究生で20代独身女性参加者が「どの話も女子校の話みたいだった」と言う。「つまり、女子は成長しない、ということか」とまとまり、どっと笑いがおこる。

Bグループで表現したAさんは、実際のママ友づきあいでは半分はいいところもあると言う。
ほめあうことで癒されたり、自分だけができてないわけじゃないんだ、と安心したり。しかしもう半分のところは、目先の表面的な話題で終止してしまい、肝心な話や深い話ができず物足りない、と感じているということだった。まだ若いAさんはゆとり世代問題と共通するようなコミュニケーションの問題をもっていた。あることに関して相手と考えが違う場合、それを言うと相手を否定し傷つけてしまうような気がしてしまって言えない、言って傷つけてしまった場合それをフォローできるほどの仲ではない、「違うんだね、ははは」と笑って話せるようになったら楽なのに、ということだった。
そしてパパたちはきまって静か、まったく話をしないというのがよくある風景ということなのだが、これはわたしも見覚えがある風景で、あーあーそうそう、とうなづけた。
うちのだんなも「男は話がへただから」とよく言っている。


この回は世田谷で契約ファシリテーターの仕事をしている3人の男性が参加してくれていたが、20代参加者から「男性からみて、この女性たちのつきあい方ってどうなんですか?」という質問がでる。
Oくんは「(あとでぐちぐち言わないで)その場で言えばいいのにと思う」と言い、Kさんは「やってみると自分の話ばっかりするのも、人の悪口言うのも気持ちいいぜ〜、自分が悪口言われるターゲットにされないうちは楽しくてしようがないんじゃないかと思うよ」と言う。これは重要な指摘だ。実際、楽しさがなければ人は嫌なことを頼まれもしないのに続けるはずがないのだ。結局のところやっぱり人として「自立」してるかしてないかの問題じゃないかということになる。そうやって悪口言ったりしてつるんでる間は自分の孤独や弱さ、心の空虚さに目を向けなくてすむので、同じような問題を抱えた人たちが集まってうさをはらしてるんじゃないか、ということだ。

「結局ママ友って、子育ての情報交換仲間としては便利だし、期間限定として割り切ってつきあうしかないんじゃないかと思う」とYさんが言う。
AさんTさんは、いいママ友がいると言う。そのいいママ友の共通点はママ同士として、というよりも、人としてつきあえるということだった。しかしこどもを介した出会いだったので、こどもを持ったことで、こういう人と出会えてよかったと思うということだ。
「人としてつきあえる」ということが条件ならば、べつに「ママ友」じゃなくてもいいんじゃないの?
ママ友問題は、実はママたちだけの問題ではない。核家族化や地域のつながりが壊れていることがその裏に隠された問題なのだ。しかし、いまだかつてすばらしい地域の絆など、どこかに存在していたことはあるのだろうか?
それが小さな規模では存在しているところもあるらしいのだ。
そこでは人々はどんな生活をし、どんな助け合いをしているのだろうか。ぜひそんな様子を見てみたいし、当事者から話をうかがってみたい。

まあ地域の関係がキレてるところで核家族で子育てしなきゃならない状況だから、同じような境遇にある「ママ友」との関係に「依存」してしまうとき、いわゆる「ママ友問題」がでてくるのだろうという結論にいたる。

しかし大多数の関係の壊れた地域に住むわれわれは、これからどうしたらいいのだろうか?
このまま「ママ友依存」社会の持続につとめるのか?それとも地域の新しい関係を創造していくのか?

Tさんちの町内では、子育てを終えた世代が季節ごとに地域のこどもたちが参加できるイベントを開催しているという。忙しい親世代が自分たちで動かなくてすんでいるので、とても助かっているということだった。
わたしが去年ワークショップで訪れた北九州の小倉では、街の大人たちが顔見知りでない子どもにも挨拶をするという。こどもたちはそんな自分たちの街をほこりに思い、街の大人たちに信頼をよせていた。

わたしたちひとりひとりにできることはなんなんでしょう?
この課題を共有して、vol.4「ママ友」の回を終えた。

これで半分しかできなかったというのは、実は今回作った「悪いママ友」の寸劇に対して「いいママ友」の寸劇も作りたかったのだ。3つのグループの設定を変えず、これがいいママ友だったら?と過程して、劇を作り直したかった。これがじゃあ来週に持ち越してできるかというと、毎回参加者が違うので、今週来た人が来週休み、今週休んだ人が来週来る、となると、今回の劇を共有していないので、この先を作るのが難しいのだ。これは同じメンバーでなければできないので、今回はひとつだけやって、あとはみんなで話し合いということになった。しかし話し合いだけでも十分にみんなで「ママ友」について考えられたと思うし、1時間オーバーはしてしまったけど、とても有意義な時間だった。

次回今週土曜のvol.5はまだ考え中ですが、やっぱり多くの意見がでていた「ママが働く」ということかなあ。







子育てと仕事の両立とワークショップの方法

先週の研究所の実習の時、また発作がでそうになったので、これはちょっとおかしいと思い、昨日整体に行ってみて、初めて知ったことがあった。
「姿勢をよくしましょう」とはよく言うけれど、なんでなのか、よくするとどうなるのか、よくないとどうなるのかがわからなかったから、若い頃からの猫背もほっておいたのだが、それが発作に関係しているとは夢にも思わなかった。整体師さんのお話によると、わたしの場合は猫背なので、右手5キロ、左手5キロ、頭5キロ、合計15キロの重さが猫背になっている背中にかかり、いつも15キロをしょって歩いてるということになるらしい。
それが姿勢がよくなるイコール地球の重力に垂直に立つと重さは分散されて、体に一番負担のかからない状態になるらしいのだ。
さらにまったく意識していなかったが、出産時に骨盤もゆがんでしまっていたり、妊娠中の、重いおなかを抱えて立つような姿勢の癖がまだ抜けてなかったりで、前後左右のバランスもかなりくずれていた。しかしよく考えれば出産してから普通に歩けるようになるのに半年はかかったから、そんなことがあっても不思議ではなかったのだ。
そこに強いストレスがかかる、つまりわたしの場合は育児家事と仕事の両立という人生で初めての経験による緊張状態が続くわけだけど、それで筋肉が弛緩することなく固まってしまい、体のゆがんだところに負荷がかかって発作が頻発、ということになっているらしい。
とくに5月10月頃にでやすいが、これは季節の変わり目で気温の変化の激しい時である。朝涼しくても日中急激に気温があがったりすると自律神経が壊れているので血管が収縮せず広がったままになってしまい、それが発作の原因になる。
研究所では窓もあけず空調もつけずのスタジオで30人が動いたり演技をしたりして、二酸化炭素濃度の高い蒸し風呂のような状態になる。それにあわせて体の調整ができず、さらに6~7時間ほぼ休みなしに集中して50人以上の演技を見るという緊張状態が続くため、それでいつも円で発作がでているのかもしれない。それでもここ1、2回は窓をあけたり空調をつけたり、換気をさせてもらっているので、どうにか実習を続けることができている。
仕事で緊張が続き、さらに家に帰ると家事やこどもの世話が山積みで、また弛緩する間もなく夜眠るまで動きっぱなしで緊張状態は続く。とにかく何も考えずぼーっとするとか、ゆっくり休むとか、よく眠るとかそういう時間とは無縁の生活だ。
もちろんわたしだけでなく育児しながら働くお母さんたちはみんなこんな状態におかれている。近所のSさんちなんかもすごい。朝は6時に起きて、4歳と2歳のこどもを起こしてお着替えさせてご飯を食べさせて、7時には夫婦でこどもたちを保育園に送り、仕事にでかけ、夜までずっと働いて、19時半にまたこどもたちをお迎えに行き、帰ってからまた食事の支度をし、こどもたちにご飯を食べさせ自分も食べ、お風呂に入れ、着替え歯磨きなどなどの世話をして寝かせて一緒に寝てしまうという生活らしい。もちろんその他家族全員分の洗濯や食器の後片付けなどしなければならない家事は毎日山ほどある。それでも仕事は長く続けていて慣れたものらしいから病気もせずにやれているのかもしれない。

わたしはまだ4月から始めたばかりの新米なので、かなりいっぱいいっぱいになっているんだろうということは自分でもわかる。
まだこどもを持つ前、「更地」でご一緒した美術家の小山田さんや、俳優の直子さんや、ドイツの渡辺和子さんや、何人かの方に子育てしながら演劇の仕事をすることのたいへんさはうかがってはいたが、実際やってみるとホントにきついものですね。。。それでも先輩方のように、ここはわたしも乗り越えていかなければいけないところだから、なんとかしたいと思う。
そこでまず「姿勢」。姿勢がいいと、とにかく体への負担が減るので、ストレスがかかっても最低限におさえられ、ストレスに強い体になるらしい。とりあえずはこれを実践してみようと思う。


ワークショップの仕事は、新しい段階にきた。
先週、世田谷学芸のEさんKさんがうちまで打ち合わせに来てくれた。
これまでの振り返りと今後の話をした。

まずはわたしの誤算について。
一回2時間という時間の枠は、今の様子を見ていると3時間にしてもいけるかという気はするが、実際今の10時-12時を、9時-12時にすると、こどもを持つ人が参加する場合、幼稚園や保育園にこどもをあずける時間や、こどもが出かけた後多少家事をしたりする時間を考慮するとちょっと開始が早すぎ、かろうじて9時半-12時半ならいけるだろうかとKさんが言う。ここが難しいところだ。うちの場合は保育園だが、通常保育は朝は9時からなので、保育園または家からワークショップ会場までの距離がポイントだろう。9時前からあずけるとなると早朝保育で保育料を別途支払わなければならなくなり、そこまでして参加するかという話もでてくる。今回は母子だけが対象のワークショップではないが、母子を含めるとこういう問題がいろいろでてきて、まあだから母子は社会から排除されやすい存在になってしまうのだろう。
しかし前回、参加者から毎回終了後にみんなでランチを食べたようという提案があったので、そこで交流ができれば足りない時間を少しはカバーできるかもしれない。

そして内容について。一般的には演劇ワークショップというと、コミュニケーションゲームとかシアターゲームとか、演劇を学んでいればある程度誰でもできるようなものと、アーティスト個人の表現や方向性にもとづいたわりとオリジナリティのあるものと、大きくは二つの種類がある。
わたしは双方のワークショプを実施してきた。とくに小学校で一日限りのものは、ゲーム形式の、あちこちでやられているような内容のものをしてきたのだが、それをしてもうまくいくかどうかは五分五分、なんだかどれくらいなにが届いたのかよくわからないことも多く、ひどいとこどもたちの集中力がまったくない場合、なんのためにやっているかわからないような状況になることもあり、一日だけのワークショップには懐疑的になり、それよりはもっと自分の創作活動に近い内容のワークショップにしたいと、最近は自分の創作の手法をそのままワークショップでも使うようになっていた。
自分の創作では、スタッフキャストなど参加メンバーのひとりひとりの存在が大きく、そのメンバーがどんなアイデアをだしどんな表現を作っていくかということが作品全体に影響してくる。
なので、ワークショップでも参加者の方の体験や思いから想を得て最後の発表に向けて全体を構成していくというやり方をとるのだが、今回の、いつ誰がくるかわからないという参加形態と時間的なスケジュールではそれはほとんど不可能、ということだったのだ。
オリジナルの方法を使うには本来足りない時間的条件のなかで強引にやったのが、去年の北九州での小学校ワークショップだった。だいたいこの方法でやった時の条件は、参加者は固定で十数名、一日3時間×8~10回で最後に発表会、というものだ。このパターンはリーディングものが多かった。
Kさんは、「今回それをするなら、子育て中ではない参加者フィクスで一日3時間、連続もの15回にする必要がある」と言っていた。
しかし参加者を固定できない、今回はしない方が いいと判断し、内容は連続したものではなく、今のように一回ずつ完結するものとし、それを通した方がいいということでまとまる。
内容ももっとシステマチックなものでよいのではという提案がお二人からあった。たしかに参加者ひとりひとりに関する情報が少ない今回の場合、そこから想を得てプログラムを考えるのはとてもたいへんで、それにくわえて誰にでもできそうな表現であること、という条件がつくとやれることは本当にかぎられてくる。

しかし最近わたしはシステマチックなワークショップから離れてきていて、原因は小学校なんかでの一日限りのワークショップにあったことを話すと、Kさんが「小学校の場合、男性のファシリテーターの方がこどもたちが言うことをきき、うまくいく場合が多い」と言った。がーん、、、そんなことすっかり頭から抜けていた、しかもワークショップをしている時に自分が女であることすら忘れている、思いもよらない方向から突然のパンチがやってきた。
しかしよく思い出してみれば、その昔、そんなことも感じていたし、出産前はワークショップの時もそれを意識していたことも多かった。なぜだろうか、自分がこどもの時にも、女の先生より男の先生の方が安定感を感じたし、みんなも男の先生の言うことの方をよく聞いてたと思う。
育休でしばらく活動を休んで、ずいぶんいろんなことを忘れてしまっているみたいだ。
しかし作品製作の現場では自分が女であることを忘れたことはほとんどない。なぜなら女の演出家はまず男のスタッフやキャストとの共同作業で苦労するからだ。わたしは演出家になる30歳まで、男と女は同じだと信じこんでいたのだが、演出家になって初めてそれはとんでもない誤解であることを知った。男性は女性よりもずっとプライドが高かったり、傷つきやすかったり、いろんな面でぜんぜん違っていて、今でもほんとに男性のことは想像でしかわからないが、そもそも違う生き物だ、と思わないと男性とはとてもうまくつきあってはいけない。

話がとんでしまったが、世田谷でも一日限りの小学校ワークショップというのをやっていて、かならず男女組み合わせのファシリテーターでやっているということだった。わたしがよく難しいと思うのは、学校では演劇のワークショップをやりたくない子も義務でやらなけれなならないということだ。
だいたいは劇場スタッフや学校の先生たちにも入ってもらって、30人前後いるこどもたちにもちゃんと目が届くようにはしているのだが、それでも騒いだりふざけたりしてしまう男の子も多い。世田谷では、やりたくない子に無理にやらせることはせず、みんながやっている間、そばで劇場スタッフとキャッチボールして遊んだりもするということだった。ファシリテーターは演出家とかじゃなくて専門のファシリテーターだというが、専門にして継続していればいろいろこどもをひきこむノウハウもでてくるだろうし、それでもやりたくない子はしなくてもいいなんて、なんだか無理がない感じがしていいなあと思った。
そんなふうにこどもたちにもファシリテーターにも劇場スタッフにも、みんなに無理がかからないような方法でできたら、一日限りのワークショップも持続可能なのかもしれないし、やらないよりはやった方がいいことにできるんじゃないかと思う。内容もシステマチックなものの方が無理がない。

ということで今回ももう少しシステマチックな内容でよいのでは?という提案だったのだが、たしかに今回の相手は小学生でもないし、物理的な条件を考えてもたしかにそれでいいのかもしれないと思えてきた。EさんKさんからは具体的な方法をいくつかお聞きしたが、たしかにそれはとても効率よく参加者の考えをひきだせるもので、利用した方が少ない時間を有効に使うことができるものだった。今はまたずいぶんいろんな方法があるんだなーと感心した。
おかげさまでまた少しワークショップの仕事に関する視界が広がった。
今後オリジナルにやるにしても部分的にシステマチックな方法をとりいれればもっと有効に時間がいかせるかもしれない。

それにしても、一日限りの小学校ワークショップの問題はどう考えてどうやっていくべきなのか。
世田谷の方針と現状の成立のさせ方をもう少し聞いてみたいと思う。問題は目的と達成ラインをどのへんに設定するかということだ。そのへんが明確になっていれば、問題なく持続可能な態勢を整えられるのだと思う。

ワークショップの「目的」はもう一度よく考えてみたいことだ。
最近はまあだいたい「発見」という言葉で集約されることが多いし、自分もそう言ったりもするけど、もっと具体的に思い出したり考えたりしてみると、そうでもない、違う言葉の方がフィットするかもしれないこともある。
手法に関しても、たとえばドイツでワークショップに参加した時、ディスカッションも演劇のワークショップの手段として活用されていて、それは演劇ワークショップとしても全く違和感のないものだったが、日本の場合、演劇ワークショップというと無意識に「体を動かすこと」という認識が強いと思う。
今後このへんをもっとよく考えて言語化していきたいと思う。

ということで明日は世田谷「子育てを考える」vol.4、ママ友スペシャルである。
6月30日の最終回も発表会をした方がいいのか、それとも通常ワークショップにしてしまった方がいいのか、ちょっとわからなくなってきた。たぶんこの日初めてくる人もいそうだからだ。発表会をするにしても、練習してる暇もないだろうし、いままでやったことを並べるにしても誰がくるかわからないからそれも難しい。もう少し考えてみたいと思う。

















「子育てを考える」vol.3-20代問題-/世田谷

ここのところいろいろハプニング続きで落ち着かない。
持病の偏頭痛の発作が2回、たてつづけにあった。27くらいからのつきあいなのでもう長い。発作がでるとまず視界がちかちかしたり銀色ぽくなったりして、まともにものが見えなくなる。それからずきずき強い頭痛がやってくる。最初の頃は発作がでると3日間くらい起き上がることもできなかったが、慶應大学病院で治療を受けて半年間薬を飲み続けてからは、発作がでてもイミグランという薬1錠とバファリンを2つのめば、少しするとおさまるようになったのでだいぶ助かっている。どういうわけか、妊娠中と授乳中は一度も発作はでなかった。ホルモンバランスの問題だろうか。しかしここのところは立て続けなので注意が必要だ。原因は仕事と育児にあることはだいたい間違いない。育児はとにかく体力勝負のハードワークで、家事すらままならなかったりするのに、その上に仕事となると、これはもうほんとに至難の技だ。

最近は女性が子育てしながら働くことのたいへんさを痛感する。
経済的にそうしなければならないケースも多いが、そうでなくても仕事をしなければ、子どもと家にこもってノイローゼになってしまうという女性は少なくない。
というか、子育てが幸せでそれだけで満ち足りるという人もまれにいるのかもしれないけど、おかしくなっちゃうというはふつうに考えて、人としてふつうのことじゃないかと思う。想像すればすぐわかる。
仕事もできない、ママ友も救いにならない、ご近所づきあいもほとんどない、実家もあてにできない、仕事で遅く帰宅するパートナーとほとんど話す時間もない、パートナー以外の大人とほとんど接触しない、こどもを連れて安心して外出できる場所も少ない、電話もできない、テレビも見られない、新聞も本も読めない、パソコンも開けられない、自分の時間などいっさいなく、ただ子どもの世話と家事に明け暮れる、そしてこどもは思うようにはいかない、こどもの(問題)行動はすべて(母)親の責任と言われる、1年も2年も3年も。
これがいわゆる「母子カプセル」という状態だ。こどもがかわいいかわいくないの問題ではない。
男性たちも体験してみたらいいと思う。
虐待件数の増加という状況の裏には、母親となった女性たちの苦しみが隠されている。

わたしも発作が続発して体はきついけれど、「働く」ことにどれだけ救われているかわからない。

そして仕事は「子育てを考える」なのだから本当にありがたい。
先週の火曜は3回目のワークショップがあった。

前の2回をやってみて、自分の誤算に気づいた。

まずひとつは単純に時間の問題で、だいたいワークショップはいつも3時間が通常なのだけど、今回の2時間という時間が予想以上に短かったことだ。2時間の設定は、こどもを連れて参加する場合の限度として想定したもので、実際3時間になるといろいろ支障はあるだろうと思う。
2時間の枠でできる内容といったらだいたい2つくらいのことになる。しかしあんまりつめこんでも、学芸Kさんのいう通り、かえってばたばたして一つ一つのテーマにじっくり取り組めなくなってしまう。
初回にいろいろみなさんから子育てに関する問題点をおききしたけれど、たくさんあがったテーマをすべてやるだけの時間はなく、さらに自分で持ち込もうと思っていた素材も使い方が難しいということに、やってみて気がついた。

二つ目は参加者の参加形態で、フィクスの参加者が親類縁者を連れて参加できるように、あるいはこどもの体調などで全日参加できなくてもOKにするために一回かぎりの参加もOKとしたけど、当日になってみないと参加がわからない場合も多く、あらかじめお聞きした話から想を得て、プログラムを考えてきても、当の本人がお休みでそれができない、ということも多い。でも、毎回ふらっと来てくださる方々がいて、それはそれでとてもうれしいことなので、こんなふうに毎回ふらっと来る方を受け入れられるような態勢にしておくことも必要だろうと思う。

初めてのテーマのワークショップで、内容も形態も今までとは全く違って試行錯誤の連続だけど、未開の地に一歩を踏み入れているので、それもたどるべき道と考えた方がいいし、そこで学ぶことも多く、それは今後に必ず生きてくるだろう。

というようなことをまず3回目のワークショップの最初にお話させていただいて、Kさんの提案で簡単なコミュニケーションゲームをしてから内容に入った。こういうゲームは、いつもは最初にやることが多いのだが、今回はあまり時間がないのではしょっていた。でもやってみると少しはみんなの緊張がほぐれるのでやった方がいいなと思った。

1、20代が家庭を持ち子育てすることの経済的な困難

3回目のこの日は前回お休みだった20代男性のTくんが来ていて、次またいつくるかわからないので、Tくんの課題の続きを先にやってしまうことにする。前回はディスカッションの形で表現を探っていたのだが、あまり核心に近づけず面白くならなかった。今回は人形劇スタイルにしてやってみる。
出演者は5人。それぞれ自分の意見や考えを人形に代弁させて表現する。
まずTくん人形が、ひとり思い悩んでいる。そこへいろんな人物や動物がやってきて、悩みを聞いて相談にのったりアドバイスしたり、一緒に時間を過ごす。Tくん以外の人形は舞台への出入り自由。
「今の20代は結婚したりこどもを持って育てたりすることは経済的に困難。親もあてにならないとしたらどうしたらいいのか」といいのがTくん人形の悩み。
そこへどこででも生きていけるだろうタイプの40代女性たちのお人形たちがやってきて、Tくんに話しかける。「行政のサポート制度調べた?」「ほんとにこどもほしいと思ったら本気で調べるんじゃない?」「巣みたいな家で子育てしたくない?ほんとにこどもが好きなら、せまいながらも楽しい我が家よ」。
いっせいに人生の先輩人形たちから厳しいコメントやアドバイスが始まった。
Rさんは「こどもできたら相談してよ、これ携帯番号ね」と助け舟を出す。
おなじ20代として出演した北九州から今回だけ参加のMさんの人形も、20代の迷いや悩みを口走ると同じように先輩方からの叱咤激励が始まる。
人生の大先輩、60代のEさんのお人形は二日酔いで調子悪そうだったけど、「つまり、動物園なんだよ!」とひとこと。これはすごい。近現代演劇のテーマのひとつを一言で言い当てている。
で結局。みんなが帰って、TくんとMさんのお人形だけが残され、それぞれに先輩方からアドバイスを受けた感想を独り言で言う。するとTくんはみんなが言ってることもわかるけど、と始まり結局は、「こどもは無理!」という結論をだしてしまった。

このプログラムはとても面白いものになった。まさに今の世代間ギャップとコミュニケーションの断絶がこの表現に凝縮されていたからだ。人生の先輩たちの目的は、けっしてTくんに「こどもをあきらめさせる」ことではなかったはずで、むしろ言いたかったのは「なんとかなる」ということだった。にもかかわらず意に反してTくんに「無理」という結論をださせるような結果になってしまった。
つまり、今のような叱咤激励の方法では通じない、ということが明らかになったということだ。
ではどうすればよかったのか?
最近よくマスコミに登場している若手社会学者の古市くんは、「上の世代は今の若者はコミュニケーション能力がないというが、それは上の世代も一緒」と言っている。上の世代というのはだいたいその上の世代からされた態度を、自分の下の世代に対しても同じようにしようとする。それに自分たちはちゃんと対応してきたのに、下の世代はそうしない、ということで腹を立てる。

コミュニケーションといえば、日本人のコミュニケーションはどうなっているのか。
ひと昔前、「背中を見て盗め(学べ)」とか「阿吽の呼吸」とか、言葉によらないコミュニケーションが生きていた時代があった。それはまだ共同体が今ほど壊れていなかったからだろうか。
しかし今のように、ここまで地域の共同体が壊れ、生活の多様化やグローバル化が進んでしまうと言語によらないコミュニケーションはとても難しくなる。それでも日本人のDNAに記憶されている言葉によらない意思疎通の美意識や共感への憧憬が、言語によるコミュニケーションの進行を遅らせたり、「KY」なんかを生み出したりしているんだろうか?
国際化、とはまず白人の言語文化のルールにのることだとすると、ここで生きていくためには言語によるコミュニケーションはどの国にとっても必須の課題であり、日本も例外ではない。
そして次に言語をどう駆使するかという課題がでてきて、それは思考回路の問題になるが、ただ自分の習慣的なやり方で言葉を相手に投げかけても、その意思が通じるとはかぎらないのだ。
時代が過渡期にあるように、日本におけるコミュニケーションも過渡期にあるように思う。

でこの現実の断絶をあますところなく表現してくれたこの人形劇のあとで、じゃあどうしたらいいの?ということをさらに深めていきたいのだが、それをやっていると他のテーマができなくなってしまうので、それを掘り下げる作業はまたいつか機会があったら、ということになるのがちょっともったいないのだが、やっぱり一度にたくさんのことはできないし、考えていれば機会はいつかまた絶対くるだろうし、少しずつでも一歩一歩進んでいくんだから、と自分を納得させることも大事なことだ。そうじゃないとまた理想と現実のギャップに苦しんで体がついていけずに発作がでたりする。
ものを作ることを仕事にしてきて、自分を極限まで追いつめる癖がついた。しかし追いつめて仕事したって、必ず文句はでる。だからとにかく自分ができることはすべて、と、夜も寝ないで、あるかぎりの時間とエネルギーのすべてを使って、生活や自分の心やいろんなものを犠牲にして。日本では、芸術にかぎらずあらゆる面において、短期で結果を出すことが求められる。みんなそれに必死で応えようとしている。しかしこのやり方で得をするのは一体誰なのか?誰が幸せになっているのか?よくわからない。よくわからないけど、このやり方自体に疑いを持つとか、多少ものがよく見えるようになってきているという自分の成長だけはわかる。


2、こどもを感じてみる

ふたつめのプログラムは、前回に引き続き、「こども」スペシャルだが、今回は、こどもたちをよく観察して、実況中継をしてみる。一人一行づつ。一行言ったら次の人に交代、という感じで順番に中継していく。これをかなり長い時間やってみると、「○○ちゃん、そろそろ飽きてきました」「疲れてきました」「嫌になってきました」などの否定的な中継が目立つようになる。しかしそう感じているのは大人の方だ。実際、こどもに嫌だったか聞いてみると全くそんなことはなく楽しんでいたようである。
中継では、「その子になったつもりで今の気持ちを言ってみる」のと「客観的にその子の行動を言っていく」のと2パターンをやってみたが、人によってどちらが言いやすいかが違っていた。だいたい母親の女性はその子の気持ちの方がいいやすかったらしいが、これはいつもこどもが何を欲しているかを考えている習慣によるのではないかという意見がでた。でもわたしは自分でやった時、客観的な方がいいやすかったので、母がみんなそうかというとそうでもないのかもしれない。
これをやってみてどうだったか、またみんなに聞いてみると「言葉では言い表せない表情や動きがあって、もどかしい」という意見や、「ふだんいかに自分がこどもを上から目線で見ているかわかった」という意見、前回同様「大人とこどもは時間の感覚が違う」という意見などがあがった。
このプログラムは、こどもがまだ0歳の時、こどもと過ごす時間を楽しむことができなかった頃、自分でやってみて救われたものだった。これは単純にこどもを感じる、今という時間を十分に感じることを助けてくれるもので、今、こうしてこの子は生きているということを思い出し、自分を悩ませるだけでなく、とても愛おしい存在であることを思い出させてくれる。
頭であれこれ考えてばかりいると、今を生きたり感じたりすることを忘れてしまう。生は本来今にしかないはずなのだが、脳の作る時間の概念はとても不思議で複雑なものだと思う。人間を弱肉強食の世界から解放したのもこの時間の概念なのだろうが。

次回、4回目はやっと「母親」問題に着手したいと思う。これが一番の大問題で、対社会、対夫、対親、対子ども、対ママ友、この関係が全部だめになると母親は5重苦を背負い完全に孤立する。そして「子ども」という存在を介したこれらの関係はとても難しい。仲のよかった親子や夫婦が子育ての方法や分担によって関係を悪化させる話はよく聞く。親や夫はまだ仕事や友人やネットなど、ほかの関係に逃げようがあるが、育児中の多くの女性には物理的にも逃げる場所と時間がない。
次回はまず、よく話にあがる「ママ友」問題をやってみたいと思う。いいママ友、わるいママ友、ママ友は必要な存在?どうしたらいい関係が作れるの?などなどを考えてみたいと思います。


円の研究所では、「ハムレット・モノローグ」を一人2回ずつやって、この課題は昨日で終了。4月からみんな苦しみながら回を重ね、この2ヶ月でずいぶん成長したと思う。成長の変化の過程で苦しむ姿も見られるが、変化の方向は間違っていないことは顔を見ればわかる。変化しなければ逆に成長はない。
来週からは月末の発表会に向けて自由課題に入る。みんなそれぞれやりたいものを持ち寄って発表し、そこからどうするかを考えていく。今の段階では、研究生たちが真摯に演劇を通して自分と向き合う表現は、へたな演劇作品よりもよっぽど見る価値のあるものだと思う。若さと芸術はとても相性がいい。















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