「おむつはずし」である。
隣家では家中のカーペットをはずし、おむつをはずし、いきなりパンツをはかせて姉弟ともに一週間でおむつがはずれたと聞いたので、うちも同じようにやってみているが、2週間がすぎてもいっこうにはずれる気配がない。なんとかうんちはおまるでできるようになったが、おしっこはかなり難しく一進一退を繰り返している。昨日は5回、パンツとずぼんを丸洗いした。
トイレトレーニングが始まってから、家事がいっきに2倍か3倍にふえたような感じだ。やってもやっても終わらず、いつも家のどこかで何かが山積みになっている。夏なので放置するわけにもいかず、休む間もなく働いているとだんだん疲れてきて、もう無理!と倒れ込むが、過酷な子育てにまったはない。
それに加えてこどもが着替えやらなにやらに非協力的だったりすると、だんだんイライラしてきて、最近はよくヒステリーを起こしている。で怒られてこどもがわーーーんと泣くと、それと同時にまたおしっこしちゃうので、またパンツとずぼんの丸洗い、、、となる。
こんなふうにこどものおしっことうんちとのたたかいの日々を過ごしていても、今夜はとしまアートステーションZでなにか話さなければならない。
えーと、そもそもはとしまアートステーション構想の意図と、わたしの考えがけっこう一致してたことから始まったんだけど、どのへんからなにを話したものかしら。
としまアートステーション構想とは
豊島区民をはじめ、アーティスト、NPO、学生など多様な人々が、区内各地域のさまざまな場所で自主的・自発的にまちな かにある地域資源を活用したアート活動の展開を可能にする「環境システムの構築」と、「コミュニティ形成の促進」を目的としています。人と人のつながりの ある地域には安心感があります。豊島区をそんな街にしてゆくために「アート」を用いた試みです。雑司が谷にあるとしまアートステーション「Z」を拠点に活 動を展開していきます。
本事業は「東京アートポイント計画」並びに豊島区文化政策推進プランのシンボルプロジェクトである「新たな創造の場づくり」の一環として、東京都、豊島 区、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、NPO法人アートネットワーク・ジャパンの四者を主体に進める取り組みです。
東京アートポイント計画とは
東京の様々な人・まち・活動をアートで結ぶことで、東京の多様な魅力を地域・市民の参画により創造・発信することを目指し、「東京文化発信プロジェクト」の一環として東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団が展開している事業です。http://bh-project.jp/artpoint
その発端は、個人的な出産育児体験にさかのぼる。
そもそもわたしは演出家として、ある時期からドキュメンタリー的な手法の作品を作っているが、それは演劇と社会との関係がほとんど切れてしまっていると感じてきたことによる。
美術の世界から演劇の世界に入り、たくさんの演劇を観たが、そのほとんどは自分の生活となにか関係のある表現とは思えなかった。
自分でドキュメンタリー的な作品を作るようになって、初めて演劇を通して社会と関われている感覚を得ることができた。
同じ頃から一般向けのワークショップの仕事もふえていった。ワークショップの参加者は、演劇などほとんどしたことも観たこともないような人々だったけど、実人生をいっぱいに生きてきた人々の表現には、ヘタな演劇などかなわないような説得力や存在の強さを感じることがあった。
ワークショップでは最後に発表会をやることも多かった。素人の発表会、というと学芸会同様、とるに足らない、親類縁者が見ればよいもの、という認識が一般的だし、自分もそう思っていたが、これが意外にも感動的なものになったりする。
参加者の方々がとまどいながらも、発表会に向けてどんどん変化していく姿もけっこう感動的だし、みんながぶつかりながらもいい関係を作っていく様子も、毎回、演劇ってすごいのね、と思わされる。
たったひとりでも、ひとりの人間が変化する、ということは本当にすごいことだ。
それに親類縁者が見るというのもなかなかあなどれない。普段家族の中で「お母さん」や「おじいちゃん」「おばあちゃん」、「こども」という顔をしてその役割を担っている人々が、その奥にひめた思いや記憶を「表現」を通して打ち明けるのだ。それは家族には普段見せたことのないような顔かもしれない。家族の中にどんな意識の変化がおこるだろうか。
それからわたしはこの人たちを観客と想定して作品を作ろう、と思うようになった。それまではわたしにとって「観客」とはまるで顔のないのっぺりとした不気味な集合体のような存在だった。いくら力を入れて作っても、のれんに腕押し的な、ぬるっとすりぬけて、どこに手応えがあるのかわからないようなものだったからだ。
たとえば「観客」とか「東京」とか、「震災」とかなんでもいい、そういう大きなものをイメージしようとしても、漠然としていてつかみどころがなく、なんと言ってみてももやもやした気分が残る。
世界の片隅に生きる具体的な個人、というローカルにこだわることにしか、表現に説得力を持たせることはできないんじゃないか、と思うようになっていった。地域限定性の高い演劇はそもそもローカルなものであるが。
ワークショップと作品作りはわたしにとって切り離せない、対のようなものになっていった。
そんなことを考えるうちに自分も結婚して妊娠して出産したら、突然世界が一変した。
仕事人間で、まわりに子育てしてる人もいなかったし、こどものいる生活がどんなものか想像もつかなかったから失敗した。自宅周辺には知り合いもいない。賃貸マンションばかりなので、近所に誰が住んでいるのかもわからないし、隣はすぐに入れ替わる。実家も遠い。仕事仲間の友人たちはみな忙しく家も遠く、ほとんど関係がとだえた。行政が用意した母子対象イベントにも行ってみたが、新しい母親たちは無理矢理なママ友作りにやっきになっていて、とてもじゃないけどこんなところにはいられないと思った。産まれたばかりの赤ちゃんはなにをしても泣き止まず、家事もできず、なにもできず、マンションの密室にこどもとふたりきり、いわゆる典型的な母子カプセル状態で、なかばノイローゼになっていた。
仕事もなくなり、家でこどもとだけ過ごす毎日。これは仕事を生き甲斐にばりばり働いてきた男性にとってどんなことだろうか?今は女性も仕事を生き甲斐にばりばり働く時代だから、女性の状況がこんな風に変化したら、ということを、自分の身におきかえて男性が想像することも可能だと思う。
それから2年くらいの間、夜中に何度か泣くこどものために十分な睡眠もとれず、病気になっても病院にも行けず、どんどん抵抗力がなくなって、病気続きの日々だった。この間にはずいぶんいろんなことを、根本的に考えさせられた。
こどもがいなかった時、わたしにはこどものいる人の生活など想像もつかなかった。
子育てをしてみると、「育児ノイローゼ」「虐待」こういうことが起こるのも、実感として理解できる。
「子育てを楽しもう」みたいな言葉がスローガンのようにあちこちで聞かれるのは、なかなかそうできない現実があるからじゃないんだろうか。
もちろん子育てを楽しめたらそれはそれでほんとにすばらしいけど、わたしのように、いやもっとそれ以上に、苦しい思いをかかえて孤独に子育てしてるお母さんたちはいっぱいいる。
そうしている間にもあちこちで上演されて続けている演劇は、なんのたしにもならず、こんな状況にはなんの関係もなく、なんの効力もない。子育て世帯の生活と演劇がこんなにも無関係だったとは、ちょっとショックだった。
演劇は、自分自身も含めて、子育て世帯に対してすごく冷たかったことに初めて気がついた。
こどもの芝居は時々あるけど、あれはある程度大きくなったこどもが観るものだし、親たちの思いを表現したり、共有したりする場所ではない。
そこにある日、世田谷パブリックシアターの学芸のKさんとEさんがひょっこり訪ねてきて、こんなわたしの思いや愚痴を3時間にわたって聞き続けて帰り、しばらく経った頃、世田谷で「子育てを考える」ワークショップをやってみないかという電話をくれた。
なんだかひさしぶりにわくわくしてきた。どうしたらそれができるだろう、どんな時間と空間が作れるだろう。ポイントは二つあった。
「母子だけを対象にしない」と「こどもを排除しない」ことだ。
よくある母子対象イベントは、ないよりはましという程度で、それほど母たちを救うものではない。むしろ無理してママ友を作ろうとしてかえってその関係に苦しんだりすることもある。それでも孤独よりはましだからと無理な関係を続けようとする、よくある風景だ。
それよりもっと無理のない関係、演劇ならばそれが作れる、ということは今までやってきたワークショップが実証してくれている。そして「表現」は自己と世界についての認識をうながし、受容し、現在という時間を肯定的に生きることをとりもどす行為だ。
今の社会は母子だけを密室に排除するような構造になっている。それが、多くの不健全な母子の状態を作り出し、たくさんの母親たちが苦しむ要因になっている。子育てを母親ひとりにまかせすぎている。もっと、こどもは社会で育てるもの、という意識が必要だ。そのためには母子ばかりでなく、いろんな立場の人たちとこの状況を共有する方がいい。
ということで、対象は「子育てに関心のある方ならどなたでも」となった。
夫に話すと、「フードコートみたいだね」と言った。
たしかにこどもも排除せず、いろんな人が共有できる時間と場所というとフードコートくらいかもしれない。以前「アトミック・サバイバー」のツアーで訪れた高知の商店街にある、戦後から続く「ひろめ市場」という大きな食堂街には、誰のことも排除しない、それで人に親近感を感じさせるようなユートピアチックな雰囲気があって、わたしはいっぺんでそこが好きになり、滞在中は毎日のように通っていたことを思い出す。
こんな演劇のワークショップは今までになかった。それを作れることが本当に嬉しかった。
完成された作品よりもむしろ、こういうワークショップの方が、十分に演劇のもつ力を発揮できることにも気がついた。今の日本の状況においては、演劇は「観るもの」ではなく、むしろ「やるもの」じゃないんだろうか。観て数日後には忘れられるような作品を大量に生産消費していくよりも、みんなが演劇で表現し、それを共有する場所を作った方が、演劇は役に立つ道具になる。
みんな演劇をやったらいいのに。
KYやキャラ分けに苦しむ演劇部の高校生たちに「演劇部じゃない子たちもみんな演劇をやったらそういうのしなくてもすむようになるんじゃない?」と聞くと、みんな一瞬ぽかんとしてから「そう思う!」と大きくうなづいた。
そういうわけで、としまアートステーション構想の、「みんなが表現者になる」という意図とわたしの考えが一致して、今回この企画に参加させてもらうことになった、ということでした。
タイトル副題の「子育てを考えるワークショップ」は、そのまま世田谷のタイトルを踏襲させてもらった。これは本当にいいタイトルで、わたしのワークショップの内容をよく表している。というかそのタイトルにあわせて初めに内容を考えたからあってて当然なんだけど、これからこのワークショップを全国に広めていければ、救われるお母さんたちもでてくると思うので、世田谷からの出発ということもあって、このタイトルはできればつなげていけたらいいなと思っている。快く許可してくださった世田谷学芸のみなさんに感謝です。
だからはタイトル「としまで(も)子育て〜子育てを考えるワークショップ」なんですが、今回のとしまでは唯一、最後の発表会までもっていけそうです。
内容も、世田谷では人形劇がメインだったけど、もっと他にもいろんな表現をやってみたい。
世田谷は思いがけず世田谷カラー満載のワークショップになりましたが、今度はどんなとしまカラーがでてくるのか、とても楽しみです。