阿部初美のブログ

演劇の演出家です。

2012年09月

としまで子育てvol.2リーデング

ここのところ、としまで子育てvol.2とvol.3の間があまりあいてなかったり、その間に世田谷パブリックシアターのレクチャーでトークをやったり、いとこに赤ちゃんが生まれてお手伝いに行ったり、バタバタと過ごしていて、疲れもでたりして、なかなか記録が書けずにいた。

こどもを産んでからというもの、とにかく疲れやすい。体が重い。まず妊娠で太って、運動が出来なくなって筋肉がすっかり衰えて、それから出産で骨盤がゆがんで姿勢に影響がでたり(足の長さが違ってしまった人もいる)、産んだあとも、いつも赤ちゃんの半径数メートルから離れられないのでもちろん運動不足だし、授乳で無理な姿勢をとって肩が上がらなくなったり、とにかく体への負担は大きく、わたしってこんなに体力なかったっけ?と思ってしまう。
さいたまから世田谷のワークショップに通っていたTちゃんも、三茶まで来るだけでもかなり疲れる、と言っていたが、ふだん電車に乗ることもほとんどなくなると、たまに電車で都内にでるだけでも本当に疲れたりする。
それとは別の話で、シュタイナーは、母と子は3歳まで「エーテル体」なるものでつながっているというが、なんとなく感覚としてはそんな感じだろうか。こどもと一緒にいなくても、なんとなくこどもが自分の体にまとわりついているような、そんな重さをいつも感じている。

vol.3の後、世田谷から引き続き8ヶ月の赤ちゃんと一緒に参加のひろぷーもやっぱり産んでから体の不調が続いたり、体が重いと感じるようになった、と言っていた。でもそういう産んだ女性の体やメンタルに関する「負」の話題や情報はあまりでてこないよね、という話になる。
子育て支援センターや児童館に集まっているママたちと話す時、「負」の話題を口にしただけで無視されることもある。まるでKYやキャラ分けをするゆとりちゃんたちのようだ、と前にブログにも書いたが、「もり下げ」てはならないという彼らのルールがママ友たちの中にもあるような気がするのだ。
しかしそうしてあるものをないものとして無理を続けていくとどうなるか、多くの新型うつを発症したゆとり世代たちがそれをおしえてくれている。

さてとしまで子育てVOL.2は、みんなで「子育て」に関する本を持ち寄った。

この日は、世田谷の時の参加者のMさんと、その友人で静岡から状況していたYさん、20代の二人が単発参加してくれていた。Yさんの本は、静岡県がだしている『女性のからだと産婦人科』という本で、静岡県の産婦人科が地図で全部表示されていて、たぶん妊娠出産時にいろいろ役立つ静岡県の本だ。Mさんは『絵本の匂い、保育の味』で、こどもたちに絵本を通じていろいろ伝えていきたい気持ちからだという。Mさんが、犬からみた子どもをテーマにした詩を読んだ。最後の文章は「おれとお前 ぜんぜん違う だから好き」で結ばれていた。
違いをうまく受け入れることができない若い世代に対してだろうか、最近この手のものをよく見かける。金子みすずの「みんな違ってみんないい」とか。しかしなにかひっかかるところがある。
あるゆとり女子が泣きながらわたしに言った。「みんな人それぞれ違ってていいんだから、それを認めなきゃ、それを認められないのはわたしがダメだからなんだ、やさしくならなきゃ、やさしくならなきゃ、ってずっと思ってきました」

その後、50代二人の大学生の子どもを持つHさんが安野光雅著『仲間はずれ』を読んだ。これは数字を学習する絵本だが、数字の本にもかかわらずタイトルの「仲間はずれ」という言葉が何度も何度も繰り返し使われていて、これは意図的なものだと思うとHさんは言う。
「仲間はずれ」ということは、「違い」を否定形でダイレクトに表した言葉だが、ここにはなんとも言えない潔さがある。一方は「違いがあるからいいんだ」と優しく語りかけるのに対して、一方は「違うやつは仲間はずれなんだ」と率直に言う。
「仲間はずれ」とは、最近問題として取り上げられ始めた「いじめ」にもつながりそうで、なんとなくこどもに伝えるのを恐れてしまいそうな言葉だが、「仲間はずれ」を異様に嫌う日本人の意識からこの「仲間はずれ」という概念が消えることはたぶんないだろう。なくならないとしたら、隠したりせずに、こういうことがあるんだよ、と、ワクチン接種のように、そういう社会の荒波にいつかもまれなければならない子どもに伝えて、少し免疫をつけさせておくのも大切なことではないかと思う。
「いじめ」がいつになってもなくならないように、今のところ「人間」は聖人にはなれないし、なる予定もしばらくないだろう。そもそも人間も本来は弱肉強食の動物なのである。弱い者をおとしめたいという本能は人間のDNAの中にまだきっと記憶されているはずで、これをただなくしましょうといってもなかなかなくなるものではない。だったらあるものは「ある」とまず認めて、じゃあそれとどうつきあったらいいの、と考える方が賢明なのではないかと思う。
その昔、アンダーグラウンド時代の演劇にもそんな面があったと思う。
世の中の「負」を隠さずにあえて表現して見せること。
Hさんは若い頃、アンダーグラウンド演劇を見まくっていたという人である。

さてしかし、「仲間はずれ」には、ほんとうに否定的な面しかないんだろうか?
たとえば資本主義社会の中で、「儲け」を追求しない「芸術」は「仲間はずれ」の存在である。
道徳を規範とする教育の中でも「芸術」は「仲間はずれ」である。
「芸術」は、いうなればなんでもありの無法遅滞で、そこでは普段見て見ぬふりをしているもの、隠されているものも、その存在を現すことができるのだ。
社会は「芸術」の中に無法遅滞を作ることによって、共同体のルールが硬直しないように、風通しのよさや健全さを保っている。だから歴史を見ても明かなように、社会が全体主義とかなにかで病んでくると、芸術の無法遅滞は禁止される。
「芸術」は「仲間はずれ」であることによって、社会の中で大切な役割を果たしているのだ。

そういえば演劇を初めて体系づけたアリストテレスも、共同体の外側の人間だったという話を聞いたが、他にもいろいろ思い出してみると、ある共同体に自己を認識させるのも、変革をもたらすのも、歴史を進めるのも、多くの「仲間はずれ」がなしえた仕事なのかもしれない。

60代の自称イクバア、Kさんが持ってきたのも、なかなか毒のある本たちである。
『ももちゃんと茜ちゃん』は、こどもに離婚を伝える本だ。
伊藤比呂美さんの詩は、それこそわたしの師匠、アングラ世代の太田省吾氏が作品中で引用したりしている。さらにKさんのもう一冊は、料理研究家の枝元なほみさんの本で、枝元さんは太田省吾氏の主催劇団、転形劇場のもと俳優である。そしてもう一冊は五味太郎の『大人問題』だった。
「「女性問題」とか「アフリカ問題」とかいうけど、「女性」とか「アフリカ」が問題なんじゃなくて、そのまわりが問題なのよ」とKさんは言う。Kさんが持ってきたのも、厳しい現実を隠さずに描いた本だった。

持ってくる本も、それぞれの世代や立ち位置を示すような本で面白い。

2女児の子育てまっただ中、次女の7ヶ月の赤ちゃんを連れて参加しているNさんは、『子育てハッピータイム』という二人の姉妹の子育てを描いた漫画と、『クーヨン』という子育て雑誌(落合恵子さんのクレヨンハウスがだしてる)を持参。前者は女の子二人の子育て奮闘記で、同じ女の子二人を持つんさんは、それを読んで笑って元気をもらっているということ。後者は、「下の子ができてから上の子を叱ることが増え、叱り方についての特集があったので買った」ということだったので、どんな叱り方が参考になったか聞くと、「覚えていない(笑)」ということだった(笑)。一人だけでも子育てはたいへんなのに、二人も育ててる人はほんとにえらいなあとつくづく思う。
上の子ばかり叱ってしまう、ということはよく聞くけど、もしわたしも下の子なるものがいたとしたらKばかりを叱ってしまうんだろうか。まだまだ甘ったれのKはもしそうなったらきっと毎日泣いてばかりに違いない。考えただけでもしんどそう〜。。

それからまだ子どものいない新婚のご夫婦AさんとSさん。少し前に、自分自身が親になって子どもを育てることに自信がないと言っていたAさんは、精神科医の書いた『つながりの精神病理』から、子どもにとって、親の否定的な側面を緩和させる「おじ・おば」の存在の重要性について話した。
たしかに、人の話を聞いていてもひょんなところでその人のおじさんやおばさんが登場して、意外に重要な役割を果たしていると思うことも多い。
親にとっても、子どもに対する責任の分散という意味でもありがたい存在である。
自分のことを考えても、夫婦共働きで町の小さな印刷工場を営んでいた両親に、子どもの頃に遊んでもらった記憶はほとんどないが、そのかわり病気で働けずずっと家にいた叔父さんから、ずいぶんこの世界のことをおしえてもらった。音楽はドレミファソラシドからできあがっていて、これを組み合わせると知っている曲が再現できること、国語辞書にはあらゆる言葉とその意味が載っていて、なんでも調べられるということ、夜空の星は天体望遠鏡をのぞくとまるい形をしていて、月は表面のでこぼこまで見えるということ。おじさんが見せてくれる世界は発見と驚きに満ちたものだった。この経験はわたしにとって、「世界は面白い」という基礎的な感情や好奇心を育ててくれたものかもしれない。

自分が金のかかる子どもだったこともあって、いつも忙しく働いていた父親と十分な時間を過ごせないまま大きくなり、父親の存在はやはり大切だと今さらながら思うというSさんは、福沢諭吉の自伝から、子育てに関する記述を読んだ。「服は祖末でも滋養が大切」とか「風呂の温度はこども次第」とか「怒る時はむつかしい顔をして」とか、子育てに関する父親としての持論が面白い。
Sさんのみならず、高度成長期、バブル期の父親たちは皆忙しく働き、家にいなかったことが多いんじゃないだろうか。だからいまだに父親とうまく話せないという息子たちは多いと思う。

そういう息子の一人であるうちの旦那さんも(この回はうちも家族で参加)、こどもの頃、世界の広さを感じさせてくれた絵本を持参したかったらしいが、福岡の実家においたままということで断念。かわりにサカキバラ事件の時にでた村上龍の名文を読みたかった、ということだったが、これも本が見つからず、結局当時の事件の頃(1997)、尾木ママが書いた子どもに関する文章を読んだのだが、その頃から尾木ママはすでに新学力観を問題視する文章を書いていた。

スタッフのNさんはマルグリット・デュラスの小説『モデラート・カンタービレ』と『トラキアの子馬』を持参。前者は演劇界の20世紀の世界の巨匠、ピーター・ブルックが若い頃に映画化した作品でもある。母親の女性目線の子どもの描写がとても美しいが、なんだか子育てってー、ってため息がでちゃう、と未婚のNさん。果たして彼女はこれを読んでどんな想像をしたのだろうか??

ということで、としまで子育てvol.2は終了しました。





としまで子育てvol.1-おハナシおハナシ

というわけで(前ブログあたま参照)、いろんな世代が集まって始まった「としまで子育て」ですが、第一回目の9月6日(木)は、とっても面白いお話の3時間になりました。

二児の子育てまっただ中、下の赤ちゃんと一緒に参加のNさん、いろんな活動をされている50代男性のHさん、ものの見方は公務員か否かに左右されるというこだわりを持つFさん、大学生まで二人の子どもを育てあげたHさん、世田谷から継続参加で8ヶ月の赤ちゃんを育てながら仕事に復帰しつつあるTさん、引退後演劇活動をしながら子育て支援の講演をするKさん、世田谷からの継続で助産院の仕事に携わりながら二児のこどもたちと一緒に参加のAさん、最近結婚してご主人と一緒に参加のMさん、まだ初日はお休みだった人もいるけど、初日に集まった主要メンバーはこんな感じの人々だった。

わたしの創作の現場ではとにかく最初はおハナシおハナシで、おハナシの時間がえんえん続く。
これはこれから作っていく表現の素材を集めるためで、初めはできるだけたくさんの具体的な素材がほしいからで、それは毎回このスタッフ、このキャストでなけばできなかった表現をめざしているからだ。

この日のお話も、本当に具体的な子育て奮闘生活に始まり、イスラム教の話に飛んだり、男女平等不平等話、若い世代の専業主婦志向はなぜかとか、男女不平等教育志向とか、戦後流行ったアメリカ流育児(スポック博士の育児書)とか、GHQの政策とか、公務員と民間人の違いとか、女性の職場復帰の難しさとか、いろんな話が散らかって、本当に面白く、まだまだ話し足りない3時間だった。でほんとに時間が足りなくて、まだ自己紹介と「子育て」の関心事について話せてない人もいたので、また次回以降お話してもらうことになっている。

この日のお話から生まれた表現のアイデアは、女性(男性)の生き方サンプルとして自分史年表を書く、というものだった。
Kさんの話で、カナダには、女性の生き方の参考資料が書かれた家庭科の教科書があり、Kさんはそれを翻訳しようとしたのだが、版権を先にとった人がいたので実現しなかったということだった。
そこで、それなら日本版を作ってみたらどうか、ということで出発したのだが、社会の変化があまりに早すぎて、なかなか人生プランを抽象化するのは難しいので、だったら一つのサンプルとして、自分史をそれぞれが書いてみよう、ということにした。
やっぱり職業と同じように、どういう道を選択したらどういう人生になるか、ということをわれわれは若い時に知らなすぎるのだ。
たとえば女性の場合、男性と同じように社会でばりばり働きキャリアアップする、という選択をした場合、20代、30代、40代、50代、60代ではどんな経験をすることになるのか。または仕事はそこそこに結婚して子どもを産んで家庭中心の人生を選択した場合、どんなことになっていくのか。今の日本で生活する女性が必ず人生のどこかで問われることは、「家庭か?仕事か?」だ。
かたや男性にはその問いは存在しない。
これは宿題にして、来週以降発表することになった。
自分の人生を振り返ってみる意味でもすごく面白いことになりそうだ。
これを若い世代やこどもたちへのメッセージとして書くことになる。わたしの選択と生き方を参考にして、自分の人生を考えてね、ということだ。

で、次回は、と言っても次回は今週15日(土)なので明後日になるが、みんなで「子育て」に関する本を持ち寄って読むことにした。「子育て」に関係することなら、ジャンルは問わず、育児書でもビジネス書でも絵本でもなんでもOKで、ひとり最低1冊、上限3冊とした。
次は、Zより広めの多目的ホールが使えるので、少しまた体を使うゲームもしてみようかな。

それとお知らせですが、9月17日(月)14:00-17:00 世田谷パブリックシアターにて、「ファシリテーターと何か」というレクシャーVOL.1にゲスト出演します。
http://setagaya-pt.jp/workshop/2012/09/post_265.html
演出活動とワークショップ活動をどう考えるか、その共通点や違いはなにかについて話す予定です。


演劇ワークショップの効能

としまアートステーション構想「としまで子育て〜子育てを考えるワークショップ」がとうとう始まりました。

初日に集まったのは、固定メンバーが9人プラス日替わりメンバーが2,3人、それに若手スタッフ、全部で15,6人くらいだっただろうか。
世田谷の時は40代女性がメインだったけど、今回は、20代、30代、40代、50代、60代がバランスよくばらけていて、男性も3人いるし、こどもたちや赤ちゃんたちも参加している。
第一回目の6日は、世田谷と同じようにまずお話から始めた。
まずは、お互いの名前を覚えるゲームで心身をほぐしてから、自己紹介と「子育て」についてそれぞれが思うことを話す。それをみんなで共有する、という作業だが、フタをあけてみると今回はホントに個性派ぞろい(!)、さらにそれぞれの世代から語ってもらうことで、「子育て」を通して歴史や社会の構造までもが立体的に見えてきて、本当に興味深く面白い話になった。といってももちろん難しい話をしていたわけではなく、みんながふだん感じている具体的な話ばかりしていたのだが、これだけの世代が一同に会して語ると、本当に歴史がみえてくるから面白い。

演劇ワークショップのいいところは、たとえばそれぞれの世代がそれぞれの価値観で話をすると、お互いの正当性を主張してぶつかりがちで、他者との違いを許容せず、ぶつかることを嫌う若い世代はだったら話さない方がいいか適当に合わせておけばいいと対話をこばんだりするが、演劇の場合、「それぞれが感じていること」は「表現を作っていくための素材」になるので、みんなそれぞれが何を感じたり思ったりしているのかということにじっと耳を傾け、それを丁寧に考え共有する。つまり日本社会で一番足りていない「タテ」の関係をうまくつなぐことができるということだ。
「タテ」のいい関係を持つ人は強い。今の社会はたいてい「ヨコ」ではつなりやすいが、「ヨコ」の関係はだいたいみんな同じようなものの見方にとらわれることが多く、発想や視点がいきづまりやすい。

このことをよく思うのは、「学校」の現場だったり、「子育て」の現場だ。

学校はこどもたち学生たちが接する大人は先生たちくらいで、とくに学外でスポーツや芸事など年齢に関係なくできる活動でもしていないかぎり「タテ」の関係を経験することはない。演劇ワークショップを通して学生たちの悩みを聞くと、それはこう考えればもっと楽になれるのに、とか、みんなそういう悩みをこえて大人になっていくんだよ、と思うことも多い。もっと親や先生以外の大人との交流があれば、いろんな悩みや苦しみから解放されやすくなるんじゃないだろうか。
大学で実習を担当していた頃、ちょっと面白い学生がいると、わたしたちの創作の現場に連れていって、お手伝いをお願いしていたが、そうすると20代から60代くらいの現場の関係の中で動くうちに、どんどん彼らの顔が生き生きしてくる。それはいかに「タテ」のいい関係が、いきづまった「ヨコ」の関係から解放してくれるかを物語っている。今の「いじめ」問題の解消にもこの「タテ」関係作りはひとつの有効な手段になると、自分自身の体験からもわたしは強く思う。

「子育て」の現場では「ママ友」がそれにあたる。ママをやっている人は学生よりは世代に広がりがあるけど、現代のママという共通の役割でヨコでつながっていくことが多く、そうしなければ乗り遅れてしまう、孤独になってしまう、という強迫観念すら感じる人もいるくらいだ。でも同じ親という立場の経験者でもそうでない人でも、もっと渦中から離れた余裕のある人といい形でつながれたらずいぶん楽になるんじゃないかと思う。それなのに、自分の親世代と「子育て」を介してぶつかって関係が悪化しがちなのは、「子育て」の方法や環境の違いによることが多い。
たとえば日常の中ではお互いに「昔はこうだった」「今はこうだ」のぶつかりあいになりがちだが、演劇ワークショップでは、お互いに感じていることをただ話しただ聞くだけなので、ふだんの何倍も冷静に相手の言い分を聞くことができるし、聞いてもらえたというだけでもだいぶ気持ちが落ち着いてくる。そして自分の言動を省みることもできる。

それでも満たされない思いが残れば、それをどんな形でもいいので「表現」してみればいい。絵の好きな人は絵で、本が好きな人は文章を書いたり朗読したりすることで、歌や音楽が好きな人は歌ったり演奏したりして。人とのが共同作業が好きな人は演劇で。

「表現」には、強い浄化作用がある。

千年以上昔のギリシャでは、演劇(悲劇)の目的は「浄化(カタルシス)」だ、と言った哲学者アリストテレスがいた。
人間は生まれつき怖れや不安を持つ存在で、劇を観て、登場人物に感情移入し、感情移入した人物がなんらかの出来事をきっかけにその怖れや不安を発散、浄化すると、それを観ている観客も同じように発散、浄化できるので、劇は定期的な精神のお掃除として必要なものだと言っていた。
しかしそれは千年以上前の話で、今、劇をみて、いやたとえばテレビドラマや映画をみて、どれくらいの人がその効果を実感できるだろうか?なにかの物語をみて、その中で泣いたりスッキリしたりということは一時的にはあるかもしれないが、そうだとしてもその効果はどれくらい続くものなのか?
そしてそもそも「浄化」は感情移入を条件とするものだ。
たとえば生活がこれだけ多様化した今、自分とはまったく違う環境や生活スタイルを持つような他者の立場に立って、ものを考えたり感じたりすることは、みんなが当たり前のようにできることなんだろうか?
近年、たとえばテレビドラマが面白くなくなった、と言われる原因はこのへんにあるのではないかと思う。
生活スタイルや価値観がバラバラになった結果、みんなが同じように感動する物語は作れなくなってしまった、とくに現代を舞台にした場合、ということではないだろうか。

こんなふうに、観る側、表現を「受け取る側」の「浄化」がなかなか難しくなってしまったのが現代なのだが、表現を「する側」の浄化作用は間違いなく続いている。
表現者は、表現することで浄化され続けてきたのだが、それはあまり公に語られてはこなかった事実だ。だから表現者はおのずと深い傷を持つ者であったり、繊細な神経の持ち主だったりする。
だいたい「表現」というものがなければ、生き続けることも難しかったような人々が、表現者となることで浄化され、精神の衛生をたもち、社会人としてやっていけるようになる、どころか同じような苦しみを持つ他者のために働く(表現する)ようになったりする。

よく表現のアマチュアたち(美術でも音楽でも演劇でも)は、プロの表現を見ようとしない、と言われているが、それは彼らの目的が、うまくなるとか表現を磨くことではなく、自分が表現を通して浄化されることにあるからだ。そういう意味では「プロ」とは、自分のための浄化だけではなく、他者のため世界のためにに表現する者のことだろう。

しかし今の日本では、演劇のプロと言えばミュージカルとか芸能人の出演する商業・娯楽演劇がその大多数で、芸術表現としての演劇は経済的にほとんど成り立たない。表現者が育たず、創作環境も悪く、表現もなかなか質が向上しないし、観客も増えない、という大きな問題をかかえている。
それは歴史的に、まず「歌舞伎」といえば「歌舞伎者」、その後「左翼運動」と結びついて、演劇は体制を乱す危険な表現ジャンルということで、権力者たちから忌み嫌われる存在であったことが大きい。なのでかいまだに日本を代表する国立の芸術大学、東京芸術大学にも、美術科、音楽科、映画科があっても演劇科はない。

日本では現代演劇が文化として育つ土壌がない、ということは作品製作の現場を通して痛いほど実感してきたことなのだが、子どもを産んで少し創作の現場から離されてみた時、ふと発想の転換がやってきた。演劇のあり方は、プロが作り観客が観るもの、というだけではなく、表現行為にまだ強く残るこの浄化作用を一般に広く利用できるようにするのもその一つだ、と。

満たされない思いを表現によって浄化する、という話からとんでもなく横道にそれてきてしまったが、演劇表現の効能はもちろんそれだけではない。「表現」は、自分や世界をみる新しい視点の獲得や、受け入れがたい現実の受容、肯定感や批評眼、疑問をうながしたりする装置でもある。つまりは人の行動を変えていくものであるということになる。ギリシャ語が語源の「ドラマ」という言葉は、「行動」を意味し、演劇では俳優を「ACTOR(行動する者)」という。
そしてなにより人との共同作業である演劇は、人と無理のないいい関係を作ってくれるものでもある。「表現」において、「違い」は「美」や「面白さ」になり、表現の質を高めるものになるからだ。それは世界が多様であるがゆえに美しく豊かであることと同じことなのかもしれない。

今回は「としまで子育て」vol.1の報告をしようと思って書き始めたのに、気づいたら演劇ワークショップの効能について書いていたので、タイトルを変えました。。としま第一回目は次またあらためて書きます。







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