ここのところ、としまで子育てvol.2とvol.3の間があまりあいてなかったり、その間に世田谷パブリックシアターのレクチャーでトークをやったり、いとこに赤ちゃんが生まれてお手伝いに行ったり、バタバタと過ごしていて、疲れもでたりして、なかなか記録が書けずにいた。
こどもを産んでからというもの、とにかく疲れやすい。体が重い。まず妊娠で太って、運動が出来なくなって筋肉がすっかり衰えて、それから出産で骨盤がゆがんで姿勢に影響がでたり(足の長さが違ってしまった人もいる)、産んだあとも、いつも赤ちゃんの半径数メートルから離れられないのでもちろん運動不足だし、授乳で無理な姿勢をとって肩が上がらなくなったり、とにかく体への負担は大きく、わたしってこんなに体力なかったっけ?と思ってしまう。
さいたまから世田谷のワークショップに通っていたTちゃんも、三茶まで来るだけでもかなり疲れる、と言っていたが、ふだん電車に乗ることもほとんどなくなると、たまに電車で都内にでるだけでも本当に疲れたりする。
それとは別の話で、シュタイナーは、母と子は3歳まで「エーテル体」なるものでつながっているというが、なんとなく感覚としてはそんな感じだろうか。こどもと一緒にいなくても、なんとなくこどもが自分の体にまとわりついているような、そんな重さをいつも感じている。
vol.3の後、世田谷から引き続き8ヶ月の赤ちゃんと一緒に参加のひろぷーもやっぱり産んでから体の不調が続いたり、体が重いと感じるようになった、と言っていた。でもそういう産んだ女性の体やメンタルに関する「負」の話題や情報はあまりでてこないよね、という話になる。
子育て支援センターや児童館に集まっているママたちと話す時、「負」の話題を口にしただけで無視されることもある。まるでKYやキャラ分けをするゆとりちゃんたちのようだ、と前にブログにも書いたが、「もり下げ」てはならないという彼らのルールがママ友たちの中にもあるような気がするのだ。
しかしそうしてあるものをないものとして無理を続けていくとどうなるか、多くの新型うつを発症したゆとり世代たちがそれをおしえてくれている。
さてとしまで子育てVOL.2は、みんなで「子育て」に関する本を持ち寄った。
この日は、世田谷の時の参加者のMさんと、その友人で静岡から状況していたYさん、20代の二人が単発参加してくれていた。Yさんの本は、静岡県がだしている『女性のからだと産婦人科』という本で、静岡県の産婦人科が地図で全部表示されていて、たぶん妊娠出産時にいろいろ役立つ静岡県の本だ。Mさんは『絵本の匂い、保育の味』で、こどもたちに絵本を通じていろいろ伝えていきたい気持ちからだという。Mさんが、犬からみた子どもをテーマにした詩を読んだ。最後の文章は「おれとお前 ぜんぜん違う だから好き」で結ばれていた。
違いをうまく受け入れることができない若い世代に対してだろうか、最近この手のものをよく見かける。金子みすずの「みんな違ってみんないい」とか。しかしなにかひっかかるところがある。
あるゆとり女子が泣きながらわたしに言った。「みんな人それぞれ違ってていいんだから、それを認めなきゃ、それを認められないのはわたしがダメだからなんだ、やさしくならなきゃ、やさしくならなきゃ、ってずっと思ってきました」
その後、50代二人の大学生の子どもを持つHさんが安野光雅著『仲間はずれ』を読んだ。これは数字を学習する絵本だが、数字の本にもかかわらずタイトルの「仲間はずれ」という言葉が何度も何度も繰り返し使われていて、これは意図的なものだと思うとHさんは言う。
「仲間はずれ」ということは、「違い」を否定形でダイレクトに表した言葉だが、ここにはなんとも言えない潔さがある。一方は「違いがあるからいいんだ」と優しく語りかけるのに対して、一方は「違うやつは仲間はずれなんだ」と率直に言う。
「仲間はずれ」とは、最近問題として取り上げられ始めた「いじめ」にもつながりそうで、なんとなくこどもに伝えるのを恐れてしまいそうな言葉だが、「仲間はずれ」を異様に嫌う日本人の意識からこの「仲間はずれ」という概念が消えることはたぶんないだろう。なくならないとしたら、隠したりせずに、こういうことがあるんだよ、と、ワクチン接種のように、そういう社会の荒波にいつかもまれなければならない子どもに伝えて、少し免疫をつけさせておくのも大切なことではないかと思う。
「いじめ」がいつになってもなくならないように、今のところ「人間」は聖人にはなれないし、なる予定もしばらくないだろう。そもそも人間も本来は弱肉強食の動物なのである。弱い者をおとしめたいという本能は人間のDNAの中にまだきっと記憶されているはずで、これをただなくしましょうといってもなかなかなくなるものではない。だったらあるものは「ある」とまず認めて、じゃあそれとどうつきあったらいいの、と考える方が賢明なのではないかと思う。
その昔、アンダーグラウンド時代の演劇にもそんな面があったと思う。
世の中の「負」を隠さずにあえて表現して見せること。
Hさんは若い頃、アンダーグラウンド演劇を見まくっていたという人である。
さてしかし、「仲間はずれ」には、ほんとうに否定的な面しかないんだろうか?
たとえば資本主義社会の中で、「儲け」を追求しない「芸術」は「仲間はずれ」の存在である。
道徳を規範とする教育の中でも「芸術」は「仲間はずれ」である。
「芸術」は、いうなればなんでもありの無法遅滞で、そこでは普段見て見ぬふりをしているもの、隠されているものも、その存在を現すことができるのだ。
社会は「芸術」の中に無法遅滞を作ることによって、共同体のルールが硬直しないように、風通しのよさや健全さを保っている。だから歴史を見ても明かなように、社会が全体主義とかなにかで病んでくると、芸術の無法遅滞は禁止される。
「芸術」は「仲間はずれ」であることによって、社会の中で大切な役割を果たしているのだ。
そういえば演劇を初めて体系づけたアリストテレスも、共同体の外側の人間だったという話を聞いたが、他にもいろいろ思い出してみると、ある共同体に自己を認識させるのも、変革をもたらすのも、歴史を進めるのも、多くの「仲間はずれ」がなしえた仕事なのかもしれない。
60代の自称イクバア、Kさんが持ってきたのも、なかなか毒のある本たちである。
『ももちゃんと茜ちゃん』は、こどもに離婚を伝える本だ。
伊藤比呂美さんの詩は、それこそわたしの師匠、アングラ世代の太田省吾氏が作品中で引用したりしている。さらにKさんのもう一冊は、料理研究家の枝元なほみさんの本で、枝元さんは太田省吾氏の主催劇団、転形劇場のもと俳優である。そしてもう一冊は五味太郎の『大人問題』だった。
「「女性問題」とか「アフリカ問題」とかいうけど、「女性」とか「アフリカ」が問題なんじゃなくて、そのまわりが問題なのよ」とKさんは言う。Kさんが持ってきたのも、厳しい現実を隠さずに描いた本だった。
持ってくる本も、それぞれの世代や立ち位置を示すような本で面白い。
2女児の子育てまっただ中、次女の7ヶ月の赤ちゃんを連れて参加しているNさんは、『子育てハッピータイム』という二人の姉妹の子育てを描いた漫画と、『クーヨン』という子育て雑誌(落合恵子さんのクレヨンハウスがだしてる)を持参。前者は女の子二人の子育て奮闘記で、同じ女の子二人を持つんさんは、それを読んで笑って元気をもらっているということ。後者は、「下の子ができてから上の子を叱ることが増え、叱り方についての特集があったので買った」ということだったので、どんな叱り方が参考になったか聞くと、「覚えていない(笑)」ということだった(笑)。一人だけでも子育てはたいへんなのに、二人も育ててる人はほんとにえらいなあとつくづく思う。
上の子ばかり叱ってしまう、ということはよく聞くけど、もしわたしも下の子なるものがいたとしたらKばかりを叱ってしまうんだろうか。まだまだ甘ったれのKはもしそうなったらきっと毎日泣いてばかりに違いない。考えただけでもしんどそう〜。。
それからまだ子どものいない新婚のご夫婦AさんとSさん。少し前に、自分自身が親になって子どもを育てることに自信がないと言っていたAさんは、精神科医の書いた『つながりの精神病理』から、子どもにとって、親の否定的な側面を緩和させる「おじ・おば」の存在の重要性について話した。
たしかに、人の話を聞いていてもひょんなところでその人のおじさんやおばさんが登場して、意外に重要な役割を果たしていると思うことも多い。
親にとっても、子どもに対する責任の分散という意味でもありがたい存在である。
自分のことを考えても、夫婦共働きで町の小さな印刷工場を営んでいた両親に、子どもの頃に遊んでもらった記憶はほとんどないが、そのかわり病気で働けずずっと家にいた叔父さんから、ずいぶんこの世界のことをおしえてもらった。音楽はドレミファソラシドからできあがっていて、これを組み合わせると知っている曲が再現できること、国語辞書にはあらゆる言葉とその意味が載っていて、なんでも調べられるということ、夜空の星は天体望遠鏡をのぞくとまるい形をしていて、月は表面のでこぼこまで見えるということ。おじさんが見せてくれる世界は発見と驚きに満ちたものだった。この経験はわたしにとって、「世界は面白い」という基礎的な感情や好奇心を育ててくれたものかもしれない。
自分が金のかかる子どもだったこともあって、いつも忙しく働いていた父親と十分な時間を過ごせないまま大きくなり、父親の存在はやはり大切だと今さらながら思うというSさんは、福沢諭吉の自伝から、子育てに関する記述を読んだ。「服は祖末でも滋養が大切」とか「風呂の温度はこども次第」とか「怒る時はむつかしい顔をして」とか、子育てに関する父親としての持論が面白い。
Sさんのみならず、高度成長期、バブル期の父親たちは皆忙しく働き、家にいなかったことが多いんじゃないだろうか。だからいまだに父親とうまく話せないという息子たちは多いと思う。
そういう息子の一人であるうちの旦那さんも(この回はうちも家族で参加)、こどもの頃、世界の広さを感じさせてくれた絵本を持参したかったらしいが、福岡の実家においたままということで断念。かわりにサカキバラ事件の時にでた村上龍の名文を読みたかった、ということだったが、これも本が見つからず、結局当時の事件の頃(1997)、尾木ママが書いた子どもに関する文章を読んだのだが、その頃から尾木ママはすでに新学力観を問題視する文章を書いていた。
スタッフのNさんはマルグリット・デュラスの小説『モデラート・カンタービレ』と『トラキアの子馬』を持参。前者は演劇界の20世紀の世界の巨匠、ピーター・ブルックが若い頃に映画化した作品でもある。母親の女性目線の子どもの描写がとても美しいが、なんだか子育てってー、ってため息がでちゃう、と未婚のNさん。果たして彼女はこれを読んでどんな想像をしたのだろうか??
ということで、としまで子育てvol.2は終了しました。
こどもを産んでからというもの、とにかく疲れやすい。体が重い。まず妊娠で太って、運動が出来なくなって筋肉がすっかり衰えて、それから出産で骨盤がゆがんで姿勢に影響がでたり(足の長さが違ってしまった人もいる)、産んだあとも、いつも赤ちゃんの半径数メートルから離れられないのでもちろん運動不足だし、授乳で無理な姿勢をとって肩が上がらなくなったり、とにかく体への負担は大きく、わたしってこんなに体力なかったっけ?と思ってしまう。
さいたまから世田谷のワークショップに通っていたTちゃんも、三茶まで来るだけでもかなり疲れる、と言っていたが、ふだん電車に乗ることもほとんどなくなると、たまに電車で都内にでるだけでも本当に疲れたりする。
それとは別の話で、シュタイナーは、母と子は3歳まで「エーテル体」なるものでつながっているというが、なんとなく感覚としてはそんな感じだろうか。こどもと一緒にいなくても、なんとなくこどもが自分の体にまとわりついているような、そんな重さをいつも感じている。
vol.3の後、世田谷から引き続き8ヶ月の赤ちゃんと一緒に参加のひろぷーもやっぱり産んでから体の不調が続いたり、体が重いと感じるようになった、と言っていた。でもそういう産んだ女性の体やメンタルに関する「負」の話題や情報はあまりでてこないよね、という話になる。
子育て支援センターや児童館に集まっているママたちと話す時、「負」の話題を口にしただけで無視されることもある。まるでKYやキャラ分けをするゆとりちゃんたちのようだ、と前にブログにも書いたが、「もり下げ」てはならないという彼らのルールがママ友たちの中にもあるような気がするのだ。
しかしそうしてあるものをないものとして無理を続けていくとどうなるか、多くの新型うつを発症したゆとり世代たちがそれをおしえてくれている。
さてとしまで子育てVOL.2は、みんなで「子育て」に関する本を持ち寄った。
この日は、世田谷の時の参加者のMさんと、その友人で静岡から状況していたYさん、20代の二人が単発参加してくれていた。Yさんの本は、静岡県がだしている『女性のからだと産婦人科』という本で、静岡県の産婦人科が地図で全部表示されていて、たぶん妊娠出産時にいろいろ役立つ静岡県の本だ。Mさんは『絵本の匂い、保育の味』で、こどもたちに絵本を通じていろいろ伝えていきたい気持ちからだという。Mさんが、犬からみた子どもをテーマにした詩を読んだ。最後の文章は「おれとお前 ぜんぜん違う だから好き」で結ばれていた。
違いをうまく受け入れることができない若い世代に対してだろうか、最近この手のものをよく見かける。金子みすずの「みんな違ってみんないい」とか。しかしなにかひっかかるところがある。
あるゆとり女子が泣きながらわたしに言った。「みんな人それぞれ違ってていいんだから、それを認めなきゃ、それを認められないのはわたしがダメだからなんだ、やさしくならなきゃ、やさしくならなきゃ、ってずっと思ってきました」
その後、50代二人の大学生の子どもを持つHさんが安野光雅著『仲間はずれ』を読んだ。これは数字を学習する絵本だが、数字の本にもかかわらずタイトルの「仲間はずれ」という言葉が何度も何度も繰り返し使われていて、これは意図的なものだと思うとHさんは言う。
「仲間はずれ」ということは、「違い」を否定形でダイレクトに表した言葉だが、ここにはなんとも言えない潔さがある。一方は「違いがあるからいいんだ」と優しく語りかけるのに対して、一方は「違うやつは仲間はずれなんだ」と率直に言う。
「仲間はずれ」とは、最近問題として取り上げられ始めた「いじめ」にもつながりそうで、なんとなくこどもに伝えるのを恐れてしまいそうな言葉だが、「仲間はずれ」を異様に嫌う日本人の意識からこの「仲間はずれ」という概念が消えることはたぶんないだろう。なくならないとしたら、隠したりせずに、こういうことがあるんだよ、と、ワクチン接種のように、そういう社会の荒波にいつかもまれなければならない子どもに伝えて、少し免疫をつけさせておくのも大切なことではないかと思う。
「いじめ」がいつになってもなくならないように、今のところ「人間」は聖人にはなれないし、なる予定もしばらくないだろう。そもそも人間も本来は弱肉強食の動物なのである。弱い者をおとしめたいという本能は人間のDNAの中にまだきっと記憶されているはずで、これをただなくしましょうといってもなかなかなくなるものではない。だったらあるものは「ある」とまず認めて、じゃあそれとどうつきあったらいいの、と考える方が賢明なのではないかと思う。
その昔、アンダーグラウンド時代の演劇にもそんな面があったと思う。
世の中の「負」を隠さずにあえて表現して見せること。
Hさんは若い頃、アンダーグラウンド演劇を見まくっていたという人である。
さてしかし、「仲間はずれ」には、ほんとうに否定的な面しかないんだろうか?
たとえば資本主義社会の中で、「儲け」を追求しない「芸術」は「仲間はずれ」の存在である。
道徳を規範とする教育の中でも「芸術」は「仲間はずれ」である。
「芸術」は、いうなればなんでもありの無法遅滞で、そこでは普段見て見ぬふりをしているもの、隠されているものも、その存在を現すことができるのだ。
社会は「芸術」の中に無法遅滞を作ることによって、共同体のルールが硬直しないように、風通しのよさや健全さを保っている。だから歴史を見ても明かなように、社会が全体主義とかなにかで病んでくると、芸術の無法遅滞は禁止される。
「芸術」は「仲間はずれ」であることによって、社会の中で大切な役割を果たしているのだ。
そういえば演劇を初めて体系づけたアリストテレスも、共同体の外側の人間だったという話を聞いたが、他にもいろいろ思い出してみると、ある共同体に自己を認識させるのも、変革をもたらすのも、歴史を進めるのも、多くの「仲間はずれ」がなしえた仕事なのかもしれない。
60代の自称イクバア、Kさんが持ってきたのも、なかなか毒のある本たちである。
『ももちゃんと茜ちゃん』は、こどもに離婚を伝える本だ。
伊藤比呂美さんの詩は、それこそわたしの師匠、アングラ世代の太田省吾氏が作品中で引用したりしている。さらにKさんのもう一冊は、料理研究家の枝元なほみさんの本で、枝元さんは太田省吾氏の主催劇団、転形劇場のもと俳優である。そしてもう一冊は五味太郎の『大人問題』だった。
「「女性問題」とか「アフリカ問題」とかいうけど、「女性」とか「アフリカ」が問題なんじゃなくて、そのまわりが問題なのよ」とKさんは言う。Kさんが持ってきたのも、厳しい現実を隠さずに描いた本だった。
持ってくる本も、それぞれの世代や立ち位置を示すような本で面白い。
2女児の子育てまっただ中、次女の7ヶ月の赤ちゃんを連れて参加しているNさんは、『子育てハッピータイム』という二人の姉妹の子育てを描いた漫画と、『クーヨン』という子育て雑誌(落合恵子さんのクレヨンハウスがだしてる)を持参。前者は女の子二人の子育て奮闘記で、同じ女の子二人を持つんさんは、それを読んで笑って元気をもらっているということ。後者は、「下の子ができてから上の子を叱ることが増え、叱り方についての特集があったので買った」ということだったので、どんな叱り方が参考になったか聞くと、「覚えていない(笑)」ということだった(笑)。一人だけでも子育てはたいへんなのに、二人も育ててる人はほんとにえらいなあとつくづく思う。
上の子ばかり叱ってしまう、ということはよく聞くけど、もしわたしも下の子なるものがいたとしたらKばかりを叱ってしまうんだろうか。まだまだ甘ったれのKはもしそうなったらきっと毎日泣いてばかりに違いない。考えただけでもしんどそう〜。。
それからまだ子どものいない新婚のご夫婦AさんとSさん。少し前に、自分自身が親になって子どもを育てることに自信がないと言っていたAさんは、精神科医の書いた『つながりの精神病理』から、子どもにとって、親の否定的な側面を緩和させる「おじ・おば」の存在の重要性について話した。
たしかに、人の話を聞いていてもひょんなところでその人のおじさんやおばさんが登場して、意外に重要な役割を果たしていると思うことも多い。
親にとっても、子どもに対する責任の分散という意味でもありがたい存在である。
自分のことを考えても、夫婦共働きで町の小さな印刷工場を営んでいた両親に、子どもの頃に遊んでもらった記憶はほとんどないが、そのかわり病気で働けずずっと家にいた叔父さんから、ずいぶんこの世界のことをおしえてもらった。音楽はドレミファソラシドからできあがっていて、これを組み合わせると知っている曲が再現できること、国語辞書にはあらゆる言葉とその意味が載っていて、なんでも調べられるということ、夜空の星は天体望遠鏡をのぞくとまるい形をしていて、月は表面のでこぼこまで見えるということ。おじさんが見せてくれる世界は発見と驚きに満ちたものだった。この経験はわたしにとって、「世界は面白い」という基礎的な感情や好奇心を育ててくれたものかもしれない。
自分が金のかかる子どもだったこともあって、いつも忙しく働いていた父親と十分な時間を過ごせないまま大きくなり、父親の存在はやはり大切だと今さらながら思うというSさんは、福沢諭吉の自伝から、子育てに関する記述を読んだ。「服は祖末でも滋養が大切」とか「風呂の温度はこども次第」とか「怒る時はむつかしい顔をして」とか、子育てに関する父親としての持論が面白い。
Sさんのみならず、高度成長期、バブル期の父親たちは皆忙しく働き、家にいなかったことが多いんじゃないだろうか。だからいまだに父親とうまく話せないという息子たちは多いと思う。
そういう息子の一人であるうちの旦那さんも(この回はうちも家族で参加)、こどもの頃、世界の広さを感じさせてくれた絵本を持参したかったらしいが、福岡の実家においたままということで断念。かわりにサカキバラ事件の時にでた村上龍の名文を読みたかった、ということだったが、これも本が見つからず、結局当時の事件の頃(1997)、尾木ママが書いた子どもに関する文章を読んだのだが、その頃から尾木ママはすでに新学力観を問題視する文章を書いていた。
スタッフのNさんはマルグリット・デュラスの小説『モデラート・カンタービレ』と『トラキアの子馬』を持参。前者は演劇界の20世紀の世界の巨匠、ピーター・ブルックが若い頃に映画化した作品でもある。母親の女性目線の子どもの描写がとても美しいが、なんだか子育てってー、ってため息がでちゃう、と未婚のNさん。果たして彼女はこれを読んでどんな想像をしたのだろうか??
ということで、としまで子育てvol.2は終了しました。