子どもが小学生になって、本が読めるようになったと思ったら、ブックランド(学校の図書室のこと。ブックランドにはブックロウというふくろうがいるらしい)で借りてくる本や本屋さんで立ち読みする本といえば、「おしりたんてい」だの「怪傑ゾロリ」だの子どもたちの間で流行りの本ばかりで、自分の子どもの頃は母親が買ってくれた少年少女文学全集を夢中で読んでいたし、テレビでも「ハイジ」やら「トムソーヤの冒険」やら「西遊記」やらやっていて、そういう古典文学シリーズに触れる機会はたくさんあったのに、今はぜんぜんないんだなあと思い、これはちょっとまずい気がして、2年生になった今年から、夜の読みきかせに子ども向け文学を少しずつ読んでいくことに決めた。
まず手始めにメーテル・リンクの「青い鳥」を読もうと思ったのだが、これは学校にあるだろうと思って借りてこいと言ったら、持ってかえってきたのはうすっぺらいあらすじだけをまとめたような絵本で、これじゃなくてもっと厚いやつ、と言ったら、そういうのはない、と言われたと言う。
学校の図書館にちゃんとした子ども向け文学全集がないなんてどういうことだろうと思ったが、しかたないので、アマゾンで探してみると中古の子ども向け古典文学シリーズがバラでかなり安く売っていた。気に入れば何回か読むかもしれないし、持っていてもいいなと思ったので、中古で揃えていくことにして、さっそく絶版になった「青い鳥」の中古を買って読み始めた。
なぜ「青い鳥」だったかというと自分が読みたかったからというのが一番大きい理由で、それは、産み育てを考えるワークショップをあちこちでやらせてもらっていた3年間にやはり産み育てのことをかなりいろいろ考えていて、そこで出会った池川明さんの本の、子どもの胎内記憶について書いたところに、子どもはみんな「生まれる前はお空にいた」と同じことを言い、それはまるで「青い鳥」の中に登場するお空の上の生まれる前の赤ちゃんたちの世界そのままのようだ、とあって、子どもの頃、「青い鳥」はとても好きなお話だったけれど、そんなシーンがあったことなどもうすっかり忘れていたし、というかチルチルとミチルが青い鳥を探しにいくお話、というほかはもうほとんど忘れてしまっていて、機会があればずっと読みたいなあと思っていたからだった。
1日に寝る前の15分〜30分程度として読み始めてみると、子どもはもちろんのこと、あまりのすばらしさ、そのイメージの豊かさにわたしまですっかり夢中になってしまった。
魔法使いの魔法で夜のぼんやりとした光の中で砂糖やパンの精が動き出すところなどは本当にドキドキするくらいだったし、死者の国でスープをこぼしてしまったチルチルがおじいさんに頬をぶたれ、頬の痛みに懐かしさを感じるところではとても切ない気持ちになり、肝心の赤ちゃんたちの世界では、赤ちゃんたちが生まれることを許され、神様の大きなお船でお空の高いところから地球めざして出発するシーンでは本当に宇宙に浮かぶ美しい地球が見えるような気がして、赤ちゃんたちの喜びを思うと涙がでるほど愛おしく美しい光景を見せてもらった。そしてラスト。やはり幸せとは、なかなかこの手の中にとどまってはくれないものなのである。きっといつでも青い鳥は自分のそばにいる。でもいた、と思ってもふと気づくともういなくなっている。なんかそんなものなんだなあ、と自分の生活をかみしめつつ、今もそれをとてもリアルに感じている。
子どもはといえば、「今まで読んだ本の中でいちばんおもしろい!」と言い、読み終わってしまうと薄い絵本をくりかえし読んできたように、「はじめからもう一回読もう!」と言った。7才の子にもこの面白さはわかるんだなあと思った。「青い鳥」もとてもおもしろかったけど、世の中にはこの他にもたくさん面白い本があることを伝えて、次に読んだのは「不思議の国のアリス」、それから「ガリバー旅行記」「ピーターパンとウエンディ」「西遊記」、そして今夜は子どものリクエストで読み始めた「ロビンソン・クルーソー」の最終回を迎える。どれもこれも、わたしにとってはさすが古典文学の力を思い知るものだったけど、子どもの一番のお気に入りは「西遊記」で、これは4ヶ月かかってやっと三蔵や悟空らと14年にわたる西天への旅を終え、もう忘れてしまっていたんだかはじめから知らなかったんだかしたラストシーンを読み終えた時は感無量だった。この「西遊記」以来、子どもは時々登場していた釈迦如来や観世音菩薩の影響でちょっとした仏男子になっている笑。
遅れてガリバーを読んだ夫とガリバーの話をしていて、その昔、まだ演劇の世界に入る前、美大の学生だった頃にベニサンピットで観た、どこかの国からやってきた二人組の小さな「ガリバー旅行記」の舞台を思い出した。
あんなのだったらやってみたいなあ、とふと思った。
子どもを産んで以来、舞台の製作はほぼやっていないし、子どもを産む前に作ってきたような舞台作品はもう無理だろうとあきらめてきたけれど、あんな、2人くらいの小さい舞台ならできるかもしれない、と初めて思った。
というか、できればそういう形でもどんな形でも、子どもたちにガツンとした古典に触れてもらいたい、という気持ちが強くなってきた。そのうち機会があれば、子どもむけ古典文学の世界を小さなステキな空間に立ち上げてみたいなあと、ひさしぶりに夢をみはじめている。
まず手始めにメーテル・リンクの「青い鳥」を読もうと思ったのだが、これは学校にあるだろうと思って借りてこいと言ったら、持ってかえってきたのはうすっぺらいあらすじだけをまとめたような絵本で、これじゃなくてもっと厚いやつ、と言ったら、そういうのはない、と言われたと言う。
学校の図書館にちゃんとした子ども向け文学全集がないなんてどういうことだろうと思ったが、しかたないので、アマゾンで探してみると中古の子ども向け古典文学シリーズがバラでかなり安く売っていた。気に入れば何回か読むかもしれないし、持っていてもいいなと思ったので、中古で揃えていくことにして、さっそく絶版になった「青い鳥」の中古を買って読み始めた。
なぜ「青い鳥」だったかというと自分が読みたかったからというのが一番大きい理由で、それは、産み育てを考えるワークショップをあちこちでやらせてもらっていた3年間にやはり産み育てのことをかなりいろいろ考えていて、そこで出会った池川明さんの本の、子どもの胎内記憶について書いたところに、子どもはみんな「生まれる前はお空にいた」と同じことを言い、それはまるで「青い鳥」の中に登場するお空の上の生まれる前の赤ちゃんたちの世界そのままのようだ、とあって、子どもの頃、「青い鳥」はとても好きなお話だったけれど、そんなシーンがあったことなどもうすっかり忘れていたし、というかチルチルとミチルが青い鳥を探しにいくお話、というほかはもうほとんど忘れてしまっていて、機会があればずっと読みたいなあと思っていたからだった。
1日に寝る前の15分〜30分程度として読み始めてみると、子どもはもちろんのこと、あまりのすばらしさ、そのイメージの豊かさにわたしまですっかり夢中になってしまった。
魔法使いの魔法で夜のぼんやりとした光の中で砂糖やパンの精が動き出すところなどは本当にドキドキするくらいだったし、死者の国でスープをこぼしてしまったチルチルがおじいさんに頬をぶたれ、頬の痛みに懐かしさを感じるところではとても切ない気持ちになり、肝心の赤ちゃんたちの世界では、赤ちゃんたちが生まれることを許され、神様の大きなお船でお空の高いところから地球めざして出発するシーンでは本当に宇宙に浮かぶ美しい地球が見えるような気がして、赤ちゃんたちの喜びを思うと涙がでるほど愛おしく美しい光景を見せてもらった。そしてラスト。やはり幸せとは、なかなかこの手の中にとどまってはくれないものなのである。きっといつでも青い鳥は自分のそばにいる。でもいた、と思ってもふと気づくともういなくなっている。なんかそんなものなんだなあ、と自分の生活をかみしめつつ、今もそれをとてもリアルに感じている。
子どもはといえば、「今まで読んだ本の中でいちばんおもしろい!」と言い、読み終わってしまうと薄い絵本をくりかえし読んできたように、「はじめからもう一回読もう!」と言った。7才の子にもこの面白さはわかるんだなあと思った。「青い鳥」もとてもおもしろかったけど、世の中にはこの他にもたくさん面白い本があることを伝えて、次に読んだのは「不思議の国のアリス」、それから「ガリバー旅行記」「ピーターパンとウエンディ」「西遊記」、そして今夜は子どものリクエストで読み始めた「ロビンソン・クルーソー」の最終回を迎える。どれもこれも、わたしにとってはさすが古典文学の力を思い知るものだったけど、子どもの一番のお気に入りは「西遊記」で、これは4ヶ月かかってやっと三蔵や悟空らと14年にわたる西天への旅を終え、もう忘れてしまっていたんだかはじめから知らなかったんだかしたラストシーンを読み終えた時は感無量だった。この「西遊記」以来、子どもは時々登場していた釈迦如来や観世音菩薩の影響でちょっとした仏男子になっている笑。
遅れてガリバーを読んだ夫とガリバーの話をしていて、その昔、まだ演劇の世界に入る前、美大の学生だった頃にベニサンピットで観た、どこかの国からやってきた二人組の小さな「ガリバー旅行記」の舞台を思い出した。
あんなのだったらやってみたいなあ、とふと思った。
子どもを産んで以来、舞台の製作はほぼやっていないし、子どもを産む前に作ってきたような舞台作品はもう無理だろうとあきらめてきたけれど、あんな、2人くらいの小さい舞台ならできるかもしれない、と初めて思った。
というか、できればそういう形でもどんな形でも、子どもたちにガツンとした古典に触れてもらいたい、という気持ちが強くなってきた。そのうち機会があれば、子どもむけ古典文学の世界を小さなステキな空間に立ち上げてみたいなあと、ひさしぶりに夢をみはじめている。