へんなお天気が続いた連休も終わって、旦那は会社へ、こどもは保育園へ行ったので、わたしも仕事の準備を始める。
一昨日は、昨日被害がひどかった栃木の益子にいた。一日ずれたら巻き込まれただろうと思うけど、一日の差で被害を受けなかった。つくばあたりも竜巻でひどいことになったけど、今自分はここで屋根のある家にいる。でもそれがなんだかほんとに偶然のように感じられる。それくらい、いつどこでなにが起こっても不思議じゃない感覚が日常的になってるんだろう。
それでも仕事も生活も続くので、今日も考えることから始める。
時々、意外な人からブログ読みましたとか読んでますとか言われることがあり、離れて普段連絡を取り合うこともなくても遠くで気にかけていただいてることを知り、本当にありがたいと思う。
このブログは、自分の考えをまとめるのに使ったり、一緒に仕事をするスタッフの方々と進行を共有したりすることに使っているので、とくに自分の考えをまとめるために書いているものは、子育て中の限られた時間でほとんどメモがわりのように急いで書いていて、ちゃんとした文章にしようとしてもなってなかったり、間違いも多かったり、言葉の選び方も雑だったりで、その点は申し訳なく思う。
しかしこの「メモ」も公開にしておくことが、母子カプセルになりがちな子育ての中で自分を社会につなげておく手段になるので、あえて公開して恥もさらすことにしている。
さて木曜は円の研究所の実習、で来週からはいよいよ世田谷の「子育てを考える」ワークショップが始まる。
研究所は、今週来週、アシスタントのノムさんからの課題、「ハムレット・モノローグ」をやることになっている。ハムレットのモノローグを自分に置き換えてそれぞれテキストを自分でアレンジして一人ずつ演じるというものである。どんなto be or not to beがでてくるんだろうか。
連休中、遊び疲れてこどものお昼寝が長引いた日があり、そこで旦那が録画していたNHKの「現代うつ」のドキュメンタリーを見せてくれた。ゆっくりテレビを見るなんてことはほとんどできないので、ほんとにラッキーだったし、見てよかった。
「現代うつ」は「新型うつ」とも言われ、今20代、30代が多く発症している病気で、症状はうつ的なんだけど、場合によっては遊びに行けちゃったりするので、ただの怠けや甘えと言われてしまうこともあるらしいのだが、やっぱりうつの一種だということ。それから被害者意識が強く、なにか問題がおこった時、常に人のせいにするという特徴もあるらしい。心が折れやすいのだ。
まさに前回とりあげたロスジェネゆとり世代の問題である。
ドキュメントを見ていると、この世代がこんな病を発症するのはとてもうなづけた。
番組の中でもこの世代の自己肯定感の低さが語られていたが、その原因として、「新学力観」が教育現場に導入されたこともあがっていた。それは、成績を、テストの点数ではなく、やる気や態度によってつけるというもので、いくらテストの成績がよくても「5」に該当しても、態度にやる気が見られなければ評価は「4」に下がってしまうらしい。これは初めて知ったので驚いた。それで、こどもたちはたえずまわりの視線を気にするようになり、常に「演じること」を強いられるようになったということだった。
番組で紹介された「新型うつ」対策としては、カウンセリングや企業の取り組みなどがあった。
企業では、うつになってしまった社員に、ひとりひとり得意な仕事を用意して、それぞれにあった仕事の仕方を提案し、社員の側は、仕事を着実にこなし評価をあげることで自信を取り戻し、効果をあげているということだった。賢い企業があったものだと思う。だいたいは「最近の若者は甘えてる」ということで自己責任論となり、対応する余裕のない企業が圧倒的だろうけど、だいたい自己責任論で切ったところで、そういう若者が多数ならば、クビをすげかえすげかえしても結局は人材がいないということで徒労に終わるだけじゃないだろうか?あまり生産的な対応とは思えない。
わたしは演劇を教育現場に取り入れることを提唱したいところだが。
というか会社員のみなさんにもぜひ演劇をおすすめしたいところだ。
うちの旦那もサラリーマンだけど、演劇は見に誘われてもあまり行きたくないけど、やろうと誘われたらやる人はけっこういるかもと言っている。
自己肯定感の低さはほんとうにどこから来ているのだろうか。
自分の価値を他者にゆだねてしまうのだ。そして自分の中はからっぽ?
とにかくこの問題はどうにかしなければならない。大人はなにか手をうたなければならないと思う。
わたしは自分のこどもにもそんな不幸なこども時代を過ごしてほしくない。
競争をさけることで、競争に負ける子が傷つくことはなくなるかもしれないが、傷つく機会を奪われた子どもは負の免疫のつけずに成長し、突出した能力を持つ子はその後の人生を支えてくれる成功体験を奪われたまま成長する。
過度な競争の後の過度な優しさ。
数年前、周年行事をひかえた都内の小学校で長期のワークショップをした時、どんな大人になりたいかと子どもたちに聞いてみると、「優しい人」というのがダントツ一位で、その他はとても少なかった。
思い返せばあの時もふと何かおかしい、と感じていたのだ。
30年前の子どもたちの答えは「正直な人」「強い人」「面白い人」、いろんな価値が多数ならんでいた。娯楽は多様化したのに、価値観はむしろ反対にやせ細っている。
核家族化、過保護、過干渉、放任、生活の便利さの向上、大人の管理意識の強まり、不況。
社会のひずみは若い世代やこどもにしわよせる。
自分のこどもを見ていても思う。なんでもスイッチひとつでできあがる便利な生活の中で、どうやって忍耐力を育てたらいいのか、どうやって体があることや生の実感を得る体験をさせられるのか。
まわりを見ても小さなこどものいる家はいつもバタバタで、日々余裕なく暮らしてるけど、ふと時々こんな問題を思い出して頭を悩ませる。
研究所ではゆとり世代と接していると、時々サラ・ケインの「4.48サイコシス」や、テア・ドルンの「BOMB SONG」の一節が頭をよぎることがある。同じ叫びを聞いているように感じることがあるのだ。後半の実習はどうしようかと考えていたが、これもちょっと持っていってみようと思う。
来週から始まる子育てを考えるワークショップでは、まず北九州の勉強会と同じように、参加者の方々の「子育て」に対する印象や思いを共有することから始めようと思う。で、でてきた素材を表現にしてみる。
わたしのワークショップでは、演劇ワークショップと言っても、ほとんどの場合、誰か別の人に「なりきって(スゴイ誤解!!と思うんだけど。。)」みたりするいわゆる「演技」みたいなことはほとんどしない。
誰にでもできるような演劇「的」な手法で表現を試していく。
たとえば、ただ本を声に出して読むとか、人形を使って人形劇みたいなことをするとか(←これはほとんどの人がこどもの頃にやったことあると思う)、ごっこ遊びみたいなことをするとか、ビデオカメラもって取材してくるとか、絵を描いてみるとか、思い出を話すとか、そしてたまには演技みたいなこともする。
とりあえず誰でも自分の得意なところでできることをして、気軽に楽しんで参加してもらいたいと思っている。
でも「演劇ワークショップ」というと、みんな演技をしなきゃいけないと思って、参加を見送る人もいるのでそれが悩みの種である。
世田谷の次の子育てワークショップの企画も、広報を考えなくちゃなのよ。
一昨日は、昨日被害がひどかった栃木の益子にいた。一日ずれたら巻き込まれただろうと思うけど、一日の差で被害を受けなかった。つくばあたりも竜巻でひどいことになったけど、今自分はここで屋根のある家にいる。でもそれがなんだかほんとに偶然のように感じられる。それくらい、いつどこでなにが起こっても不思議じゃない感覚が日常的になってるんだろう。
それでも仕事も生活も続くので、今日も考えることから始める。
時々、意外な人からブログ読みましたとか読んでますとか言われることがあり、離れて普段連絡を取り合うこともなくても遠くで気にかけていただいてることを知り、本当にありがたいと思う。
このブログは、自分の考えをまとめるのに使ったり、一緒に仕事をするスタッフの方々と進行を共有したりすることに使っているので、とくに自分の考えをまとめるために書いているものは、子育て中の限られた時間でほとんどメモがわりのように急いで書いていて、ちゃんとした文章にしようとしてもなってなかったり、間違いも多かったり、言葉の選び方も雑だったりで、その点は申し訳なく思う。
しかしこの「メモ」も公開にしておくことが、母子カプセルになりがちな子育ての中で自分を社会につなげておく手段になるので、あえて公開して恥もさらすことにしている。
さて木曜は円の研究所の実習、で来週からはいよいよ世田谷の「子育てを考える」ワークショップが始まる。
研究所は、今週来週、アシスタントのノムさんからの課題、「ハムレット・モノローグ」をやることになっている。ハムレットのモノローグを自分に置き換えてそれぞれテキストを自分でアレンジして一人ずつ演じるというものである。どんなto be or not to beがでてくるんだろうか。
連休中、遊び疲れてこどものお昼寝が長引いた日があり、そこで旦那が録画していたNHKの「現代うつ」のドキュメンタリーを見せてくれた。ゆっくりテレビを見るなんてことはほとんどできないので、ほんとにラッキーだったし、見てよかった。
「現代うつ」は「新型うつ」とも言われ、今20代、30代が多く発症している病気で、症状はうつ的なんだけど、場合によっては遊びに行けちゃったりするので、ただの怠けや甘えと言われてしまうこともあるらしいのだが、やっぱりうつの一種だということ。それから被害者意識が強く、なにか問題がおこった時、常に人のせいにするという特徴もあるらしい。心が折れやすいのだ。
まさに前回とりあげたロスジェネゆとり世代の問題である。
ドキュメントを見ていると、この世代がこんな病を発症するのはとてもうなづけた。
番組の中でもこの世代の自己肯定感の低さが語られていたが、その原因として、「新学力観」が教育現場に導入されたこともあがっていた。それは、成績を、テストの点数ではなく、やる気や態度によってつけるというもので、いくらテストの成績がよくても「5」に該当しても、態度にやる気が見られなければ評価は「4」に下がってしまうらしい。これは初めて知ったので驚いた。それで、こどもたちはたえずまわりの視線を気にするようになり、常に「演じること」を強いられるようになったということだった。
番組で紹介された「新型うつ」対策としては、カウンセリングや企業の取り組みなどがあった。
企業では、うつになってしまった社員に、ひとりひとり得意な仕事を用意して、それぞれにあった仕事の仕方を提案し、社員の側は、仕事を着実にこなし評価をあげることで自信を取り戻し、効果をあげているということだった。賢い企業があったものだと思う。だいたいは「最近の若者は甘えてる」ということで自己責任論となり、対応する余裕のない企業が圧倒的だろうけど、だいたい自己責任論で切ったところで、そういう若者が多数ならば、クビをすげかえすげかえしても結局は人材がいないということで徒労に終わるだけじゃないだろうか?あまり生産的な対応とは思えない。
わたしは演劇を教育現場に取り入れることを提唱したいところだが。
というか会社員のみなさんにもぜひ演劇をおすすめしたいところだ。
うちの旦那もサラリーマンだけど、演劇は見に誘われてもあまり行きたくないけど、やろうと誘われたらやる人はけっこういるかもと言っている。
自己肯定感の低さはほんとうにどこから来ているのだろうか。
自分の価値を他者にゆだねてしまうのだ。そして自分の中はからっぽ?
とにかくこの問題はどうにかしなければならない。大人はなにか手をうたなければならないと思う。
わたしは自分のこどもにもそんな不幸なこども時代を過ごしてほしくない。
競争をさけることで、競争に負ける子が傷つくことはなくなるかもしれないが、傷つく機会を奪われた子どもは負の免疫のつけずに成長し、突出した能力を持つ子はその後の人生を支えてくれる成功体験を奪われたまま成長する。
過度な競争の後の過度な優しさ。
数年前、周年行事をひかえた都内の小学校で長期のワークショップをした時、どんな大人になりたいかと子どもたちに聞いてみると、「優しい人」というのがダントツ一位で、その他はとても少なかった。
思い返せばあの時もふと何かおかしい、と感じていたのだ。
30年前の子どもたちの答えは「正直な人」「強い人」「面白い人」、いろんな価値が多数ならんでいた。娯楽は多様化したのに、価値観はむしろ反対にやせ細っている。
核家族化、過保護、過干渉、放任、生活の便利さの向上、大人の管理意識の強まり、不況。
社会のひずみは若い世代やこどもにしわよせる。
自分のこどもを見ていても思う。なんでもスイッチひとつでできあがる便利な生活の中で、どうやって忍耐力を育てたらいいのか、どうやって体があることや生の実感を得る体験をさせられるのか。
まわりを見ても小さなこどものいる家はいつもバタバタで、日々余裕なく暮らしてるけど、ふと時々こんな問題を思い出して頭を悩ませる。
研究所ではゆとり世代と接していると、時々サラ・ケインの「4.48サイコシス」や、テア・ドルンの「BOMB SONG」の一節が頭をよぎることがある。同じ叫びを聞いているように感じることがあるのだ。後半の実習はどうしようかと考えていたが、これもちょっと持っていってみようと思う。
来週から始まる子育てを考えるワークショップでは、まず北九州の勉強会と同じように、参加者の方々の「子育て」に対する印象や思いを共有することから始めようと思う。で、でてきた素材を表現にしてみる。
わたしのワークショップでは、演劇ワークショップと言っても、ほとんどの場合、誰か別の人に「なりきって(スゴイ誤解!!と思うんだけど。。)」みたりするいわゆる「演技」みたいなことはほとんどしない。
誰にでもできるような演劇「的」な手法で表現を試していく。
たとえば、ただ本を声に出して読むとか、人形を使って人形劇みたいなことをするとか(←これはほとんどの人がこどもの頃にやったことあると思う)、ごっこ遊びみたいなことをするとか、ビデオカメラもって取材してくるとか、絵を描いてみるとか、思い出を話すとか、そしてたまには演技みたいなこともする。
とりあえず誰でも自分の得意なところでできることをして、気軽に楽しんで参加してもらいたいと思っている。
でも「演劇ワークショップ」というと、みんな演技をしなきゃいけないと思って、参加を見送る人もいるのでそれが悩みの種である。
世田谷の次の子育てワークショップの企画も、広報を考えなくちゃなのよ。