今週火曜から世田谷パブリック・シアターでの「子育てを考える」ワークショップが始まり、木曜は円の研究所の実習があり、また土曜は世田谷子育ての2回目があり、今週はとても忙しく、緊張感も続くがとても楽しい。

「子育てを考える」ワークショップ、第1回目は、参加者の方々への質問「子育て」のなにについて考えたいか?から始め、2時間すべて使ってお一人お一人に話をしていただいた。ここまでは北九州の勉強会と同じだけど、北九州とは地域も公募の仕方も違うせいか、ずいぶん市民運動の盛んな「世田谷らしい」雰囲気になった。ご自身でも、「子育て」に関して社会を変えるための活動をされている方が多かった。
参加は一回でもOKなのだが、この初日はとくに参加が集中して、スタッフまで含めると全部で20人以上の出席者となる。40前後の女性が目立つが、男性もちらほら、60代とお子様にもお一人ずつ来ていただいてとても嬉しい。
実はこのワークショップは、最後の6回目に発表会を企画していたのだが、「発表会あり」と聞くとまたプレッシャーで参加を見送る人がでたらいやだねということで、学芸スタッフと相談して発表会のことは公募の段階ではふせておいたせいか、6回目の出席者が一番少ないという困った状況にある。。。

一回でもOKと宣伝したのは、参加者が家族をつれてきてくれたりするのを期待していたり、子連れ参加は毎回確実というのは難しい(こどもがとつぜん熱をだしたり体調が悪くなったり)だろうことを考慮した上でのことだったのだが、参加者本人が一回とか数回しか来ないみたいなケースが多くなってしまった。公募の仕方は難しいなあ。。。
しかし学芸スタッフはあまり心配してないみたいで、慣れたものだからいろいろ勘も働くのだろうから、お船に乗せてもらっておけばいいかなとも思う。

なぜ発表会を企画したかと言えば、これまでのワークショップで発表会が最後にあったものはうまくいく可能性が高かったからだ。発表するということで緊張感が生まれ、成長、変化の度合いが大きくなる。
発表会を観にくるのは参加者の家族や親しい友人といった人々で、地域の「学芸会」的なものになるのだが、それはいつもちょっと感動的な光景だ。表現を職業とする俳優とは違い、日頃自分を表現することなく生きてきた方々のリアルな実人生の感覚をともなう表現には、ヘタな演劇よりもよっぽど見る価値のある体験やたくさんつまった思いがある。それをともに人生の時間を過ごしてきた親類縁者が観るのだ。それはよく知る親しい人の見たことのない一面かもしれない。こうした「表現」という日常とは違う方法でのコミュニケーションでの体験や思いの共有によって、その関係はどう変わるのか。それは発表会の後のみなさんの顔を見ればそれはよくわかる。
参加者どうしも年齢や立場を越えて、初めのもじもじぎくしゃくをのりこえ、同じ舞台を作る仲間として手を組み、協力して表現を作りあげていく様子はほんとうに頼もしく、やっぱり演劇ってすごいなーといつも思ってしまう。

これが、いわゆる演劇作品の上演では味わえない演劇の面白さだ。通常の作品上演では、観客はいったいどんな人々なのか顔が見えず、観た人々がどう感じて、なにか人生にプラスになる変化があったのかどうか、上演の価値はあったのかどうか、それがわかりにくく、のれんに腕押しな感じを受けることがよくある。
それにくらべてワークショップは「顔が見える」ので、誰がどんなふうに成長・変化していったかがよくわかる。一人の人の変化、は本当にすごいことだ。一人が変わればそのまわりにも影響は波及する。かなり草の根的だけど、とても価値のあることだと思う。

まあそれで、今回もみなさんに話していただいて、でてきた素材をもとに子育てについていろいろな角度から表現を試していって、それをつなげて最後に発表したいと思っている。
今回もとても興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。

育児分担の不平等、男は子育てにどう関われるのか、「子育て」以前の夫婦間の問題、ママ友とうまくつきあえない、自分らしい子育てとは?、若い世代は経済的に結婚や子どもを持つことが難しい、こどもってなに?、結婚後の地域や親族との摩擦に対する不安、仕事と子育ての両立、個人としてのわたしを取り戻したい母、「育児ノイローゼ」など苦しむ母親たちを救うには、女性の妊娠を迷惑がる社会を変えたい、虐待、しつけなのかストレス発散なのか?、unhappyな子育てをしている人にどう関われるのか、日本人がなくしてしまったバイタリティー、育児しながら働く女性に対する社会の理解の低さ、学校や地域の機能不全、親になることへの不安、地域の中で育った感覚の欠如などなど

北九州もだったけど、劇場の学芸他スタッフもみんな参加者の一人として同じように参加してくれるのは本当にいいと思う。「上から目線」で品定めしたり自分を隠すことの許される特別な誰か、という感じではなく、立場は違っても問題を共有する同じ一人の個人としてそこにいてくれてるのを感じるからだ。
参加者とスタッフの違いはスタッフは職業としてワークショップに関わっていることだ。職業上恥をかきたくない気持ちは誰にでもあると思うけど、それを恥も覚悟の上で?かはわからないが自分をさらして参加してくれるスタッフは、本当に勇気があると思うし、その自信と謙虚さは人としてとても魅力的だ。
「上から目線」なんてひさしぶりに使った言葉だけど、研究生と接していると、人の態度に敏感な彼らから「あーこんな言葉あったなー」とか思い出させてもらったりこちらも学ぶことがあるのでとても面白い。

明日土曜日は参加が薄い回だけど、円の研究生が3人参加してくれたり、うちも家族全員参加でこどもも連れていくので、「こども」と「若い世代の問題」をテーマに表現を探ってみたいと思う。


円の研究所では、「ハムレット」モノローグ、to be or not to beの現代バージョンをやっているが、これがまたとても面白い。
「この不況下で、少しでも安定した職業につくべきか、それとも安定はないが自分の行きたい道に進むべきか」とか、「アパートの隣の部屋がうるさい、管理会社に言うべきか否か」とか、「飲み会に行くべきか否か」とか、「言うべきか否か」とか、東京らしかったり、他者の反応にやたら敏感なこの世代らしいテーマもたくさんでてきた。
実習で使っているのは福田恒存訳だが、これをそのままやった研究生の発表を聞いていて、このセリフが今の日本でリアルに語られるとしたら、T電のもと社長とか、そんな感じかしらと思えてきた。
「ハムレット」を古典作品鑑賞用上演ではなく、現代に生きる作品として上演するには、それくらいのことじゃないと成立させるのは難しいだろうな。
あるいは朝鮮半島の北のあととりのお話とか?