ここのところいろいろハプニング続きで落ち着かない。
持病の偏頭痛の発作が2回、たてつづけにあった。27くらいからのつきあいなのでもう長い。発作がでるとまず視界がちかちかしたり銀色ぽくなったりして、まともにものが見えなくなる。それからずきずき強い頭痛がやってくる。最初の頃は発作がでると3日間くらい起き上がることもできなかったが、慶應大学病院で治療を受けて半年間薬を飲み続けてからは、発作がでてもイミグランという薬1錠とバファリンを2つのめば、少しするとおさまるようになったのでだいぶ助かっている。どういうわけか、妊娠中と授乳中は一度も発作はでなかった。ホルモンバランスの問題だろうか。しかしここのところは立て続けなので注意が必要だ。原因は仕事と育児にあることはだいたい間違いない。育児はとにかく体力勝負のハードワークで、家事すらままならなかったりするのに、その上に仕事となると、これはもうほんとに至難の技だ。
最近は女性が子育てしながら働くことのたいへんさを痛感する。
経済的にそうしなければならないケースも多いが、そうでなくても仕事をしなければ、子どもと家にこもってノイローゼになってしまうという女性は少なくない。
というか、子育てが幸せでそれだけで満ち足りるという人もまれにいるのかもしれないけど、おかしくなっちゃうというはふつうに考えて、人としてふつうのことじゃないかと思う。想像すればすぐわかる。
仕事もできない、ママ友も救いにならない、ご近所づきあいもほとんどない、実家もあてにできない、仕事で遅く帰宅するパートナーとほとんど話す時間もない、パートナー以外の大人とほとんど接触しない、こどもを連れて安心して外出できる場所も少ない、電話もできない、テレビも見られない、新聞も本も読めない、パソコンも開けられない、自分の時間などいっさいなく、ただ子どもの世話と家事に明け暮れる、そしてこどもは思うようにはいかない、こどもの(問題)行動はすべて(母)親の責任と言われる、1年も2年も3年も。
これがいわゆる「母子カプセル」という状態だ。こどもがかわいいかわいくないの問題ではない。
男性たちも体験してみたらいいと思う。
虐待件数の増加という状況の裏には、母親となった女性たちの苦しみが隠されている。
わたしも発作が続発して体はきついけれど、「働く」ことにどれだけ救われているかわからない。
そして仕事は「子育てを考える」なのだから本当にありがたい。
先週の火曜は3回目のワークショップがあった。
前の2回をやってみて、自分の誤算に気づいた。
まずひとつは単純に時間の問題で、だいたいワークショップはいつも3時間が通常なのだけど、今回の2時間という時間が予想以上に短かったことだ。2時間の設定は、こどもを連れて参加する場合の限度として想定したもので、実際3時間になるといろいろ支障はあるだろうと思う。
2時間の枠でできる内容といったらだいたい2つくらいのことになる。しかしあんまりつめこんでも、学芸Kさんのいう通り、かえってばたばたして一つ一つのテーマにじっくり取り組めなくなってしまう。
初回にいろいろみなさんから子育てに関する問題点をおききしたけれど、たくさんあがったテーマをすべてやるだけの時間はなく、さらに自分で持ち込もうと思っていた素材も使い方が難しいということに、やってみて気がついた。
二つ目は参加者の参加形態で、フィクスの参加者が親類縁者を連れて参加できるように、あるいはこどもの体調などで全日参加できなくてもOKにするために一回かぎりの参加もOKとしたけど、当日になってみないと参加がわからない場合も多く、あらかじめお聞きした話から想を得て、プログラムを考えてきても、当の本人がお休みでそれができない、ということも多い。でも、毎回ふらっと来てくださる方々がいて、それはそれでとてもうれしいことなので、こんなふうに毎回ふらっと来る方を受け入れられるような態勢にしておくことも必要だろうと思う。
初めてのテーマのワークショップで、内容も形態も今までとは全く違って試行錯誤の連続だけど、未開の地に一歩を踏み入れているので、それもたどるべき道と考えた方がいいし、そこで学ぶことも多く、それは今後に必ず生きてくるだろう。
というようなことをまず3回目のワークショップの最初にお話させていただいて、Kさんの提案で簡単なコミュニケーションゲームをしてから内容に入った。こういうゲームは、いつもは最初にやることが多いのだが、今回はあまり時間がないのではしょっていた。でもやってみると少しはみんなの緊張がほぐれるのでやった方がいいなと思った。
1、20代が家庭を持ち子育てすることの経済的な困難
3回目のこの日は前回お休みだった20代男性のTくんが来ていて、次またいつくるかわからないので、Tくんの課題の続きを先にやってしまうことにする。前回はディスカッションの形で表現を探っていたのだが、あまり核心に近づけず面白くならなかった。今回は人形劇スタイルにしてやってみる。
出演者は5人。それぞれ自分の意見や考えを人形に代弁させて表現する。
まずTくん人形が、ひとり思い悩んでいる。そこへいろんな人物や動物がやってきて、悩みを聞いて相談にのったりアドバイスしたり、一緒に時間を過ごす。Tくん以外の人形は舞台への出入り自由。
「今の20代は結婚したりこどもを持って育てたりすることは経済的に困難。親もあてにならないとしたらどうしたらいいのか」といいのがTくん人形の悩み。
そこへどこででも生きていけるだろうタイプの40代女性たちのお人形たちがやってきて、Tくんに話しかける。「行政のサポート制度調べた?」「ほんとにこどもほしいと思ったら本気で調べるんじゃない?」「巣みたいな家で子育てしたくない?ほんとにこどもが好きなら、せまいながらも楽しい我が家よ」。
いっせいに人生の先輩人形たちから厳しいコメントやアドバイスが始まった。
Rさんは「こどもできたら相談してよ、これ携帯番号ね」と助け舟を出す。
おなじ20代として出演した北九州から今回だけ参加のMさんの人形も、20代の迷いや悩みを口走ると同じように先輩方からの叱咤激励が始まる。
人生の大先輩、60代のEさんのお人形は二日酔いで調子悪そうだったけど、「つまり、動物園なんだよ!」とひとこと。これはすごい。近現代演劇のテーマのひとつを一言で言い当てている。
で結局。みんなが帰って、TくんとMさんのお人形だけが残され、それぞれに先輩方からアドバイスを受けた感想を独り言で言う。するとTくんはみんなが言ってることもわかるけど、と始まり結局は、「こどもは無理!」という結論をだしてしまった。
このプログラムはとても面白いものになった。まさに今の世代間ギャップとコミュニケーションの断絶がこの表現に凝縮されていたからだ。人生の先輩たちの目的は、けっしてTくんに「こどもをあきらめさせる」ことではなかったはずで、むしろ言いたかったのは「なんとかなる」ということだった。にもかかわらず意に反してTくんに「無理」という結論をださせるような結果になってしまった。
つまり、今のような叱咤激励の方法では通じない、ということが明らかになったということだ。
ではどうすればよかったのか?
最近よくマスコミに登場している若手社会学者の古市くんは、「上の世代は今の若者はコミュニケーション能力がないというが、それは上の世代も一緒」と言っている。上の世代というのはだいたいその上の世代からされた態度を、自分の下の世代に対しても同じようにしようとする。それに自分たちはちゃんと対応してきたのに、下の世代はそうしない、ということで腹を立てる。
コミュニケーションといえば、日本人のコミュニケーションはどうなっているのか。
ひと昔前、「背中を見て盗め(学べ)」とか「阿吽の呼吸」とか、言葉によらないコミュニケーションが生きていた時代があった。それはまだ共同体が今ほど壊れていなかったからだろうか。
しかし今のように、ここまで地域の共同体が壊れ、生活の多様化やグローバル化が進んでしまうと言語によらないコミュニケーションはとても難しくなる。それでも日本人のDNAに記憶されている言葉によらない意思疎通の美意識や共感への憧憬が、言語によるコミュニケーションの進行を遅らせたり、「KY」なんかを生み出したりしているんだろうか?
国際化、とはまず白人の言語文化のルールにのることだとすると、ここで生きていくためには言語によるコミュニケーションはどの国にとっても必須の課題であり、日本も例外ではない。
そして次に言語をどう駆使するかという課題がでてきて、それは思考回路の問題になるが、ただ自分の習慣的なやり方で言葉を相手に投げかけても、その意思が通じるとはかぎらないのだ。
時代が過渡期にあるように、日本におけるコミュニケーションも過渡期にあるように思う。
でこの現実の断絶をあますところなく表現してくれたこの人形劇のあとで、じゃあどうしたらいいの?ということをさらに深めていきたいのだが、それをやっていると他のテーマができなくなってしまうので、それを掘り下げる作業はまたいつか機会があったら、ということになるのがちょっともったいないのだが、やっぱり一度にたくさんのことはできないし、考えていれば機会はいつかまた絶対くるだろうし、少しずつでも一歩一歩進んでいくんだから、と自分を納得させることも大事なことだ。そうじゃないとまた理想と現実のギャップに苦しんで体がついていけずに発作がでたりする。
ものを作ることを仕事にしてきて、自分を極限まで追いつめる癖がついた。しかし追いつめて仕事したって、必ず文句はでる。だからとにかく自分ができることはすべて、と、夜も寝ないで、あるかぎりの時間とエネルギーのすべてを使って、生活や自分の心やいろんなものを犠牲にして。日本では、芸術にかぎらずあらゆる面において、短期で結果を出すことが求められる。みんなそれに必死で応えようとしている。しかしこのやり方で得をするのは一体誰なのか?誰が幸せになっているのか?よくわからない。よくわからないけど、このやり方自体に疑いを持つとか、多少ものがよく見えるようになってきているという自分の成長だけはわかる。
2、こどもを感じてみる
ふたつめのプログラムは、前回に引き続き、「こども」スペシャルだが、今回は、こどもたちをよく観察して、実況中継をしてみる。一人一行づつ。一行言ったら次の人に交代、という感じで順番に中継していく。これをかなり長い時間やってみると、「○○ちゃん、そろそろ飽きてきました」「疲れてきました」「嫌になってきました」などの否定的な中継が目立つようになる。しかしそう感じているのは大人の方だ。実際、こどもに嫌だったか聞いてみると全くそんなことはなく楽しんでいたようである。
中継では、「その子になったつもりで今の気持ちを言ってみる」のと「客観的にその子の行動を言っていく」のと2パターンをやってみたが、人によってどちらが言いやすいかが違っていた。だいたい母親の女性はその子の気持ちの方がいいやすかったらしいが、これはいつもこどもが何を欲しているかを考えている習慣によるのではないかという意見がでた。でもわたしは自分でやった時、客観的な方がいいやすかったので、母がみんなそうかというとそうでもないのかもしれない。
これをやってみてどうだったか、またみんなに聞いてみると「言葉では言い表せない表情や動きがあって、もどかしい」という意見や、「ふだんいかに自分がこどもを上から目線で見ているかわかった」という意見、前回同様「大人とこどもは時間の感覚が違う」という意見などがあがった。
このプログラムは、こどもがまだ0歳の時、こどもと過ごす時間を楽しむことができなかった頃、自分でやってみて救われたものだった。これは単純にこどもを感じる、今という時間を十分に感じることを助けてくれるもので、今、こうしてこの子は生きているということを思い出し、自分を悩ませるだけでなく、とても愛おしい存在であることを思い出させてくれる。
頭であれこれ考えてばかりいると、今を生きたり感じたりすることを忘れてしまう。生は本来今にしかないはずなのだが、脳の作る時間の概念はとても不思議で複雑なものだと思う。人間を弱肉強食の世界から解放したのもこの時間の概念なのだろうが。
次回、4回目はやっと「母親」問題に着手したいと思う。これが一番の大問題で、対社会、対夫、対親、対子ども、対ママ友、この関係が全部だめになると母親は5重苦を背負い完全に孤立する。そして「子ども」という存在を介したこれらの関係はとても難しい。仲のよかった親子や夫婦が子育ての方法や分担によって関係を悪化させる話はよく聞く。親や夫はまだ仕事や友人やネットなど、ほかの関係に逃げようがあるが、育児中の多くの女性には物理的にも逃げる場所と時間がない。
次回はまず、よく話にあがる「ママ友」問題をやってみたいと思う。いいママ友、わるいママ友、ママ友は必要な存在?どうしたらいい関係が作れるの?などなどを考えてみたいと思います。
円の研究所では、「ハムレット・モノローグ」を一人2回ずつやって、この課題は昨日で終了。4月からみんな苦しみながら回を重ね、この2ヶ月でずいぶん成長したと思う。成長の変化の過程で苦しむ姿も見られるが、変化の方向は間違っていないことは顔を見ればわかる。変化しなければ逆に成長はない。
来週からは月末の発表会に向けて自由課題に入る。みんなそれぞれやりたいものを持ち寄って発表し、そこからどうするかを考えていく。今の段階では、研究生たちが真摯に演劇を通して自分と向き合う表現は、へたな演劇作品よりもよっぽど見る価値のあるものだと思う。若さと芸術はとても相性がいい。
持病の偏頭痛の発作が2回、たてつづけにあった。27くらいからのつきあいなのでもう長い。発作がでるとまず視界がちかちかしたり銀色ぽくなったりして、まともにものが見えなくなる。それからずきずき強い頭痛がやってくる。最初の頃は発作がでると3日間くらい起き上がることもできなかったが、慶應大学病院で治療を受けて半年間薬を飲み続けてからは、発作がでてもイミグランという薬1錠とバファリンを2つのめば、少しするとおさまるようになったのでだいぶ助かっている。どういうわけか、妊娠中と授乳中は一度も発作はでなかった。ホルモンバランスの問題だろうか。しかしここのところは立て続けなので注意が必要だ。原因は仕事と育児にあることはだいたい間違いない。育児はとにかく体力勝負のハードワークで、家事すらままならなかったりするのに、その上に仕事となると、これはもうほんとに至難の技だ。
最近は女性が子育てしながら働くことのたいへんさを痛感する。
経済的にそうしなければならないケースも多いが、そうでなくても仕事をしなければ、子どもと家にこもってノイローゼになってしまうという女性は少なくない。
というか、子育てが幸せでそれだけで満ち足りるという人もまれにいるのかもしれないけど、おかしくなっちゃうというはふつうに考えて、人としてふつうのことじゃないかと思う。想像すればすぐわかる。
仕事もできない、ママ友も救いにならない、ご近所づきあいもほとんどない、実家もあてにできない、仕事で遅く帰宅するパートナーとほとんど話す時間もない、パートナー以外の大人とほとんど接触しない、こどもを連れて安心して外出できる場所も少ない、電話もできない、テレビも見られない、新聞も本も読めない、パソコンも開けられない、自分の時間などいっさいなく、ただ子どもの世話と家事に明け暮れる、そしてこどもは思うようにはいかない、こどもの(問題)行動はすべて(母)親の責任と言われる、1年も2年も3年も。
これがいわゆる「母子カプセル」という状態だ。こどもがかわいいかわいくないの問題ではない。
男性たちも体験してみたらいいと思う。
虐待件数の増加という状況の裏には、母親となった女性たちの苦しみが隠されている。
わたしも発作が続発して体はきついけれど、「働く」ことにどれだけ救われているかわからない。
そして仕事は「子育てを考える」なのだから本当にありがたい。
先週の火曜は3回目のワークショップがあった。
前の2回をやってみて、自分の誤算に気づいた。
まずひとつは単純に時間の問題で、だいたいワークショップはいつも3時間が通常なのだけど、今回の2時間という時間が予想以上に短かったことだ。2時間の設定は、こどもを連れて参加する場合の限度として想定したもので、実際3時間になるといろいろ支障はあるだろうと思う。
2時間の枠でできる内容といったらだいたい2つくらいのことになる。しかしあんまりつめこんでも、学芸Kさんのいう通り、かえってばたばたして一つ一つのテーマにじっくり取り組めなくなってしまう。
初回にいろいろみなさんから子育てに関する問題点をおききしたけれど、たくさんあがったテーマをすべてやるだけの時間はなく、さらに自分で持ち込もうと思っていた素材も使い方が難しいということに、やってみて気がついた。
二つ目は参加者の参加形態で、フィクスの参加者が親類縁者を連れて参加できるように、あるいはこどもの体調などで全日参加できなくてもOKにするために一回かぎりの参加もOKとしたけど、当日になってみないと参加がわからない場合も多く、あらかじめお聞きした話から想を得て、プログラムを考えてきても、当の本人がお休みでそれができない、ということも多い。でも、毎回ふらっと来てくださる方々がいて、それはそれでとてもうれしいことなので、こんなふうに毎回ふらっと来る方を受け入れられるような態勢にしておくことも必要だろうと思う。
初めてのテーマのワークショップで、内容も形態も今までとは全く違って試行錯誤の連続だけど、未開の地に一歩を踏み入れているので、それもたどるべき道と考えた方がいいし、そこで学ぶことも多く、それは今後に必ず生きてくるだろう。
というようなことをまず3回目のワークショップの最初にお話させていただいて、Kさんの提案で簡単なコミュニケーションゲームをしてから内容に入った。こういうゲームは、いつもは最初にやることが多いのだが、今回はあまり時間がないのではしょっていた。でもやってみると少しはみんなの緊張がほぐれるのでやった方がいいなと思った。
1、20代が家庭を持ち子育てすることの経済的な困難
3回目のこの日は前回お休みだった20代男性のTくんが来ていて、次またいつくるかわからないので、Tくんの課題の続きを先にやってしまうことにする。前回はディスカッションの形で表現を探っていたのだが、あまり核心に近づけず面白くならなかった。今回は人形劇スタイルにしてやってみる。
出演者は5人。それぞれ自分の意見や考えを人形に代弁させて表現する。
まずTくん人形が、ひとり思い悩んでいる。そこへいろんな人物や動物がやってきて、悩みを聞いて相談にのったりアドバイスしたり、一緒に時間を過ごす。Tくん以外の人形は舞台への出入り自由。
「今の20代は結婚したりこどもを持って育てたりすることは経済的に困難。親もあてにならないとしたらどうしたらいいのか」といいのがTくん人形の悩み。
そこへどこででも生きていけるだろうタイプの40代女性たちのお人形たちがやってきて、Tくんに話しかける。「行政のサポート制度調べた?」「ほんとにこどもほしいと思ったら本気で調べるんじゃない?」「巣みたいな家で子育てしたくない?ほんとにこどもが好きなら、せまいながらも楽しい我が家よ」。
いっせいに人生の先輩人形たちから厳しいコメントやアドバイスが始まった。
Rさんは「こどもできたら相談してよ、これ携帯番号ね」と助け舟を出す。
おなじ20代として出演した北九州から今回だけ参加のMさんの人形も、20代の迷いや悩みを口走ると同じように先輩方からの叱咤激励が始まる。
人生の大先輩、60代のEさんのお人形は二日酔いで調子悪そうだったけど、「つまり、動物園なんだよ!」とひとこと。これはすごい。近現代演劇のテーマのひとつを一言で言い当てている。
で結局。みんなが帰って、TくんとMさんのお人形だけが残され、それぞれに先輩方からアドバイスを受けた感想を独り言で言う。するとTくんはみんなが言ってることもわかるけど、と始まり結局は、「こどもは無理!」という結論をだしてしまった。
このプログラムはとても面白いものになった。まさに今の世代間ギャップとコミュニケーションの断絶がこの表現に凝縮されていたからだ。人生の先輩たちの目的は、けっしてTくんに「こどもをあきらめさせる」ことではなかったはずで、むしろ言いたかったのは「なんとかなる」ということだった。にもかかわらず意に反してTくんに「無理」という結論をださせるような結果になってしまった。
つまり、今のような叱咤激励の方法では通じない、ということが明らかになったということだ。
ではどうすればよかったのか?
最近よくマスコミに登場している若手社会学者の古市くんは、「上の世代は今の若者はコミュニケーション能力がないというが、それは上の世代も一緒」と言っている。上の世代というのはだいたいその上の世代からされた態度を、自分の下の世代に対しても同じようにしようとする。それに自分たちはちゃんと対応してきたのに、下の世代はそうしない、ということで腹を立てる。
コミュニケーションといえば、日本人のコミュニケーションはどうなっているのか。
ひと昔前、「背中を見て盗め(学べ)」とか「阿吽の呼吸」とか、言葉によらないコミュニケーションが生きていた時代があった。それはまだ共同体が今ほど壊れていなかったからだろうか。
しかし今のように、ここまで地域の共同体が壊れ、生活の多様化やグローバル化が進んでしまうと言語によらないコミュニケーションはとても難しくなる。それでも日本人のDNAに記憶されている言葉によらない意思疎通の美意識や共感への憧憬が、言語によるコミュニケーションの進行を遅らせたり、「KY」なんかを生み出したりしているんだろうか?
国際化、とはまず白人の言語文化のルールにのることだとすると、ここで生きていくためには言語によるコミュニケーションはどの国にとっても必須の課題であり、日本も例外ではない。
そして次に言語をどう駆使するかという課題がでてきて、それは思考回路の問題になるが、ただ自分の習慣的なやり方で言葉を相手に投げかけても、その意思が通じるとはかぎらないのだ。
時代が過渡期にあるように、日本におけるコミュニケーションも過渡期にあるように思う。
でこの現実の断絶をあますところなく表現してくれたこの人形劇のあとで、じゃあどうしたらいいの?ということをさらに深めていきたいのだが、それをやっていると他のテーマができなくなってしまうので、それを掘り下げる作業はまたいつか機会があったら、ということになるのがちょっともったいないのだが、やっぱり一度にたくさんのことはできないし、考えていれば機会はいつかまた絶対くるだろうし、少しずつでも一歩一歩進んでいくんだから、と自分を納得させることも大事なことだ。そうじゃないとまた理想と現実のギャップに苦しんで体がついていけずに発作がでたりする。
ものを作ることを仕事にしてきて、自分を極限まで追いつめる癖がついた。しかし追いつめて仕事したって、必ず文句はでる。だからとにかく自分ができることはすべて、と、夜も寝ないで、あるかぎりの時間とエネルギーのすべてを使って、生活や自分の心やいろんなものを犠牲にして。日本では、芸術にかぎらずあらゆる面において、短期で結果を出すことが求められる。みんなそれに必死で応えようとしている。しかしこのやり方で得をするのは一体誰なのか?誰が幸せになっているのか?よくわからない。よくわからないけど、このやり方自体に疑いを持つとか、多少ものがよく見えるようになってきているという自分の成長だけはわかる。
2、こどもを感じてみる
ふたつめのプログラムは、前回に引き続き、「こども」スペシャルだが、今回は、こどもたちをよく観察して、実況中継をしてみる。一人一行づつ。一行言ったら次の人に交代、という感じで順番に中継していく。これをかなり長い時間やってみると、「○○ちゃん、そろそろ飽きてきました」「疲れてきました」「嫌になってきました」などの否定的な中継が目立つようになる。しかしそう感じているのは大人の方だ。実際、こどもに嫌だったか聞いてみると全くそんなことはなく楽しんでいたようである。
中継では、「その子になったつもりで今の気持ちを言ってみる」のと「客観的にその子の行動を言っていく」のと2パターンをやってみたが、人によってどちらが言いやすいかが違っていた。だいたい母親の女性はその子の気持ちの方がいいやすかったらしいが、これはいつもこどもが何を欲しているかを考えている習慣によるのではないかという意見がでた。でもわたしは自分でやった時、客観的な方がいいやすかったので、母がみんなそうかというとそうでもないのかもしれない。
これをやってみてどうだったか、またみんなに聞いてみると「言葉では言い表せない表情や動きがあって、もどかしい」という意見や、「ふだんいかに自分がこどもを上から目線で見ているかわかった」という意見、前回同様「大人とこどもは時間の感覚が違う」という意見などがあがった。
このプログラムは、こどもがまだ0歳の時、こどもと過ごす時間を楽しむことができなかった頃、自分でやってみて救われたものだった。これは単純にこどもを感じる、今という時間を十分に感じることを助けてくれるもので、今、こうしてこの子は生きているということを思い出し、自分を悩ませるだけでなく、とても愛おしい存在であることを思い出させてくれる。
頭であれこれ考えてばかりいると、今を生きたり感じたりすることを忘れてしまう。生は本来今にしかないはずなのだが、脳の作る時間の概念はとても不思議で複雑なものだと思う。人間を弱肉強食の世界から解放したのもこの時間の概念なのだろうが。
次回、4回目はやっと「母親」問題に着手したいと思う。これが一番の大問題で、対社会、対夫、対親、対子ども、対ママ友、この関係が全部だめになると母親は5重苦を背負い完全に孤立する。そして「子ども」という存在を介したこれらの関係はとても難しい。仲のよかった親子や夫婦が子育ての方法や分担によって関係を悪化させる話はよく聞く。親や夫はまだ仕事や友人やネットなど、ほかの関係に逃げようがあるが、育児中の多くの女性には物理的にも逃げる場所と時間がない。
次回はまず、よく話にあがる「ママ友」問題をやってみたいと思う。いいママ友、わるいママ友、ママ友は必要な存在?どうしたらいい関係が作れるの?などなどを考えてみたいと思います。
円の研究所では、「ハムレット・モノローグ」を一人2回ずつやって、この課題は昨日で終了。4月からみんな苦しみながら回を重ね、この2ヶ月でずいぶん成長したと思う。成長の変化の過程で苦しむ姿も見られるが、変化の方向は間違っていないことは顔を見ればわかる。変化しなければ逆に成長はない。
来週からは月末の発表会に向けて自由課題に入る。みんなそれぞれやりたいものを持ち寄って発表し、そこからどうするかを考えていく。今の段階では、研究生たちが真摯に演劇を通して自分と向き合う表現は、へたな演劇作品よりもよっぽど見る価値のあるものだと思う。若さと芸術はとても相性がいい。